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〜平城京:謀略と策略の限りを尽くした天智天皇も、病に滅せられる〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
画面奥に見える太極殿と太極殿跡
ここでも朱雀門・太極殿もちゃんとプチ空撮を撮影しています。
新年にご紹介しますね。 大化の改新において策謀を企てた藤原鎌足の共犯者というより、むしろ主犯としてクーデターを実行した張本人で、その後影の支配者となり、不穏な有力者に暗い影の中で目を光らせていた中大兄皇子が、ここに来てようやく衆人の見上げる玉座についたのです。
なのでここでは天智天皇として皇位につく経緯からのお話をご紹介します。そしてそれは当然友好国:百済の救援のための遠征の話からになります。
(一言?:私事ですが、こうやって日本書紀に記された記紀神話のモデルというか、編纂された頃のことを調べながら記していると、先に記したページを修正しなければならない事を知る新たな新情報に触れます。当然以前の修正すべきページは、可能な限り修正しています。
ちょっとした事にこだわらなければ、間違いを知ることはなかったでしょう。デメリットとしては、その時その時にやるべき事にかなりマイナスの影響があることでしょうか。周囲からは叱られぱなしです。皆さんはこだわらない方がいいですよ。)
百済の救援のための遠征は、歴史上では白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)と呼びます。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていた事が『日本書紀』の記録から知られ、朝鮮半島でも、『宋書』という古い文献などの中に任那の記述が見られ、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示しています。
ここから、次の横線までは、読み飛ばして結構です。
朝鮮半島の任那についての説明ですので。
【任那(みまな、にんな)とは】 注:倭国は古代日本のことです。
古代の朝鮮半島にあった国の一つである金官国を中心とする地域は、その昔倭国の北端だったと思われる記述が日本書紀などにはあり、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めますが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られています。
飛鳥時代以前に朝鮮半島にあった任那の領土は、通説では上図に示した地域とされています。
(一言:つまり上に示した図に示された倭国の通説に従った領土よりも、もっと小さな領土であったという説もあるということです。)
日本の日本書紀や朝鮮半島の古文献などから読み取れる任那の存在を裏づける史跡としては、現在の中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)沿岸の中国側の都市:集案(チーアン)にある広開土王碑には、「倭が新羅や百済を臣民とした。」等と書かれているのですが、日本では、第二次世界大戦後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていました。
朝鮮半島側でも、碑文には、遠く離れた倭が何度も出てくるのに、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこないことから、高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者などの主張により、韓国では日本軍改竄(かいざん)説が横行していました。
しかし、近年その説が否定され、史料価値が明確になったようです。
またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されています。
ただしこの件についての有力な見かたでは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団がいたものの、ヤマト王権から派遣された官使や軍人ではなく、ヤマト王権と深い関連を持つ者達やヤマト王権に臣従した在地豪族だとされています。
ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたようです。
任那、加羅は、倭国から百済へ領土の一部をゆずり渡したり、新羅の侵略によって勢力境界線からだんだんと侵され、大化の改新以前の562年に新羅に滅ぼされています。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落。その後、熊津(くまなり)への遷都によって復興し、538年には泗沘(しび)へ遷都します。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られます。
朝鮮半島の不穏な動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まります。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済とのどちらに支援するかの二者択一を迫られることになる。
この時期の外交政策については、誰がどの国を支持していたかについて、「一貫した親百済路線説」・「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」・「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれているようです。
(一言:とは言うもの、百済を支援するべく出兵したというなら、中大兄皇子=親百済派は鉄板(間違いない)のでは?)
【倭国による百済救援】
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めます。
661年、斉明天皇も中大兄皇子・大海人皇子らと共の九州へ出兵するも邦の津(現在の福岡県の港)にて急死します(暗殺説あり)。
(一言:あれあれ、困りました。今回また話が大きく大陸にまで広がりましたね。分からないことに一々こだわらず、スルーすることが出来ればよかったのですが、とりわけ朝鮮半島の前方後円墳については、別途ページを記すことになりそうです。)
(ちなみに:唐との戦いで敗れ、祖国をなくした百済人たちは倭国に亡命。
そんな例の一つ、滋賀県蒲生郡は百済人たちが多く住み着いたところです。
石塔寺の三重塔は、百済の都、扶余(ふよ)にあった定林寺の五重塔の様式と同じとか。
滅亡した百済の王族たちは、当初は当然大和朝廷のある奈良地方を頼って逃れますが、いつの世も都は恒に動乱の渦中になるものです。
なのでその後の動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船出した一行は、瀬戸内海で時化(しけ)にあい、九州東海岸の日向市金ヶ浜と高鍋町蚊口浦に漂着します。
そして、山間部に入り、父の禎嘉王(ていかおう)は宮崎県東臼杵郡美郷町に王子の福智王(ふくちおう)は宮崎県児湯郡木城町に移り住んだと言われています。(旧南郷村の「百済王伝説」より))
こうして663年、白村江の戦い(唐・新羅連合軍との戦い)で敗れた中大兄皇子は、戦後唐の侵攻に備えるため、近江大津宮(大津京)に遷都(667年)し、その翌年(668年)に即位して天智天皇となり、同母弟の大海人皇子を皇太子に擁立します。
朝鮮半島での戦いは敗れましたが、これにより数多くの百済系難民が渡来し日本文化に少なからず影響を与えることになります。明日香村に残る数多くの石造物や、高松塚古墳などの壁画は、そうした高い技術を持った渡来人により築造されたのです。
そして、白村江の戦いに敗れた天智天皇は国防を重視して、対馬・壱岐・筑紫に防人を設置します。
また、九州福岡の大野城と大宰府の境界に堤防を造り水を注ぎ(水城)外敵に備えます。
669年には、政策全般にわたって補佐してきた中臣鎌足が死去しますが、臨終に際し天智天皇は大織冠(史上藤原鎌足だけが授けた冠位の最上位)を賜え藤原姓を名乗ることを許します。
その後も国の引き締め策として民の掌握のために日本最初の戸籍とされる「庚午年籍」(こうごねんじゃく)が670年に作成されます。
もちろん自身の後継者についても着手し、671年には自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめます。すると、大海人皇子は自身の代わりに大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出、天智天皇もこれを受け入れ、大海人皇子は吉野宮(奈良県吉野)に下ったのです。
大海人皇子が都を去ったことで、近江では壬申の乱の動きが芽生えはじめます。
そんな中、天智天皇は病におかされ、672年1月、近江宮において46歳で崩御します。 かくして在位の期間としてはわずかに4年でしたが、叔父や母を傀儡として長きに渡り国の実権を掌握し、謀略と知略の限りを尽くした血で血を洗う天智天皇の半生は、病によって46歳でその命を終えます。
(一言:終末の病の床で、その半生を振り返り、天智天皇はどんな思いで最後を迎えたのでしょうか?)
もうすぐ新年です。皆さん良いお年を! ![]() |
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