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〜平城京:天智天皇の子 弘文天皇は皇位につくこともなく?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
近年(後の世:1870年)になって諡号を贈られ天皇として認められたのですが、即位したかどうかは定かではなく、大友皇子と表記されることが多いそうです。 白村江の戦い(朝鮮出兵)の後、中大兄皇子は668年。天智天皇(てんじてんのう)として即位しますが、その僅か3年後に病死してしまいます。
天智天皇はその生前、残り少ない余命を悟り、後継者の有力候補だった自分の子、大友皇子を後継者として指名します。
(ちなみに:具体的に言えば、天智天皇は、生前にそれまでは前例の無かった太政大臣という官位を我が子大友皇子に与えたのです。それはいわば皇太子に摂政を兼ねた地位でした。つまり、大海人皇子の官位:皇太子より上位の官位だったのです。)
そうなっては大友皇子の叔父と言えど大海人皇子が宮中に居座る事はできません。なぜなら、天智天皇はそれまで、たとえ親族でも対抗勢力となりうる存在はことごとく抹殺して来たからです。
兄の意向を知った大海人皇子は、来るべきチャンスを待つためだったのかどうかはわかりませんが、その時点では静かに都を離れ、吉野の山奥でひっそりと暮らします。
そして天智天皇の死によって、政治に対する不満が一気に爆発し、大友皇子派と大海人皇子派の対決は避けられないものになってゆきます。
なにより、当時の大海人皇子には、冷血非道な天智天皇に比べ温厚で人望が厚く、彼に心を寄せる豪族達も多かったといいます。 大海人皇子は、隠棲していた吉野を出て自身の領地のある美濃へ出発します。初めは、賛同する兵も多くはありませんでしたが、伊賀、伊勢を通り美濃にたどりつくまでには、かつての政治に不満をもっていた豪族らを次々に味方につけ、あっという間に圧倒的な兵力を手に入れてしまいます。そして、大海人皇子は、その兵を琵琶湖を挟むように二手に分け進攻させていきます。
大友皇子(天智天皇の子)側も進撃体制を整え、防戦しますが1ヶ月の後、琵琶湖の南に位置する瀬田での戦いで大敗を喫すると、その翌日、山前(琵琶湖の南西辺り)で大友皇子は首をくくって自害することになるのです。25歳という若さでした。
この叔父と甥が皇位継承をめぐって激しく激突した争いを壬申の乱といいます。 かくして大友皇子の世は実現することなく戦いの中で25歳の若さで自らの命を絶ち、皇極天皇の我が子に対する溺愛から始まる中大兄皇子こと天智天皇の意向による血塗られた政治の命脈は絶たれたかに思われたのですが・・・・。
お話は大海人皇子の世へと続きます。 ![]() |
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