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〜平城京:天武天皇もまた権力の強化をはかり〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
話はまた大化の改新前に戻りますが、
そもそも大化の改新前に起こった乙巳の変は、舒明天皇の第一皇子であり(皇極天皇を母としない)、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、大臣・蘇我入鹿が、天皇に擁立しようと望んでいたために、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(厩戸皇子=聖徳太子の子)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼしたのです。その時、山背大兄王に皇位を継がせるための中継ぎとして蘇我入鹿が擁立したのが皇極天皇だったと言われます。ところがこのことが、王と蘇我氏の関係悪化を決定的にし、皮肉にもこれに端を発して蘇我入鹿自身が暗殺されるのです。
そして、そんな野心に満ちた争いの中に、兄:中大兄皇子の協力者として大海人皇子もいました。
そうすることが大海人皇子自身の未来につながると信じていたのでしょう。
前回にも触れましたが、大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とします。百済復興のための朝鮮半島出兵には、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときにも、大海人皇子は鸕野讃良皇女と大田皇子を連れて従います。旅の出港から帰港まで約4年を要し(661〜664年)、途中、661年1月に妻の大田皇女が大伯海で大伯皇女を生み、出兵から期間後に生まれた大津皇子の名も筑紫の娜大津での出生に由来すると言われます。帰還後も大海人皇子は額田王を妻として十市皇女を儲けます。おそらく、一説に采女という低い身分ながら絶世の美人だったと言われる額田王(ぬかたのおおきみ)も身辺の世話役として動向し、男女の関係となったのでしょう。
やがて大海人皇子の妃となり十市皇女を儲けます。朝鮮半島での白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)では大敗し、母:斉明天皇(皇極天皇)は九州の地で亡くなるものの、大海人皇子と中大兄皇子は無事帰還します。大海人皇子は遠征後もしばらくは中大兄皇子に従い政務をこなしますが、額田王はなぜか(野心家の女性だったのか?力ずくだったのか?)中大兄皇子の妃になります。
(ちなみに:この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説が、賛否を呼んでいるそうです。)
遠征後に斉明天皇(皇極天皇)と人間皇女(大海人皇子・中大兄皇子・鸕野讃良皇女の兄弟で、孝徳天皇の妃)は牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)に合葬され、白村江の大敗の4年後頃、20代前半の若さで亡くなった大田皇女は、その前に葬られます。 この頃の大海人皇子は、周囲の目からは、温厚な人柄に見えていたようです。
すると温厚な人柄と言われた天武天皇は豹変し、兄:天智天皇に劣らぬ強権政治を断行。
(一言:嫁の力は偉大ですよ。時として夫の生き様を豹変させることもあります。おー怖い!クワバラ、くわばら。天武天皇がそうだったとは言いませんが・・・・。)
(飛鳥資料館 展示品より)
673年2月に即位した天武天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務を行います。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したといいます。
(一言:ほらね、やっぱり妻の力が夫を突き動かしていたんですよ。良くも悪くも)
皇子らが成長すると、679年5月に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮におもむき、6日にそこで天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという誓い(吉野の盟約)を立てます。ところが実際には6人は平等ではなく、草壁皇子(天武・持統の子)が最初、大津皇子(天武・大田皇女の子)が次、最年長の高市皇子(天武・尼子娘の子)が3番目に誓いを立て、その後に、忍壁皇子(天武・の子)と天智天皇の子(志貴皇子・川島皇子)が続きました。
この序列は天武の治世の間維持されました。天智天皇の子は皇位継承権から外されたものの、天武の子である草壁皇子は天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津皇子は山辺皇女をめとり、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚します。つまり天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされるのでした。
天皇と皇后は681年2月に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てます。しかし683年2月から有能な大津皇子にも政務に参加させます。
(一言:これはひょっとして、草壁皇子は有能ではなかったということなのでしょう。か?たぶんね!そして大津皇子を起用したことが災いの種となります。)
(ちなみに:草壁皇子:662年生まれ。大津皇子:663年生まれで、ほぼ同年代です。)
おりしも天武天皇は、686年5月に病気になります。そこで自身がこれまで保護・発展を進めてきた仏教の効験によって回復を願いますが効果はなく、7月に政治を皇后と皇太子に委ねて後、神仏の加護もなく、9月11日に病死してしまいます。
天武天皇の死後まもなく、大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ、自殺します。(686年、享年24歳)。
大津皇子謀反」は、皇后の鸕野讃良皇女(持統天皇)の陰謀説、実際に大津皇子に皇位奪取の行があった説などがあり、真相はわかりません。
かくして、天武天皇もまた、天智天皇が成した際限のない強権による統治の強化を更に推し進めますが、吉野の盟約は守られず、皇位は後継者と定めた草壁皇子に継承されることもなく病死します。あるいは、皇后である鸕野讃良皇女(持統天皇)の傀儡(かいらい)でしかなかったのかもしれません。
鸕野讃良皇女(持統天皇)→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇・・・・と皇位継承がなされます。 ![]() |
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