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〜平城京:持統天皇は、プライドの女帝!そして孫へ〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
前回のページよりようやく、第4皇女でありながら平城京への遷都を行った元明天皇こと阿部皇女の名が出てくるようになりましたね。それでも、元明天皇に至るまでには、今回の持統天皇を含め、もう一代の天皇をへなければなりませんし、この辺りが多くの皇子・皇女などが入り乱れてややこしいところです。
兄である天智天皇の圧政を恐れ、自ら宮中を去って後に鸕野讃良皇女(持統天皇)と共にリベンジを果たした天武天皇でしたが、結局は天智天皇と同じ道を歩み、我が子:草壁皇子に皇位を継がせることもなく天武天皇はこの世を去ります。
天武天皇の後を継いだのは、皇后である鸕野讃良皇女(持統天皇)でした。
明日香村上空からの航空写真
(飛鳥資料館より)
壬申の乱で大友皇子を自殺に追い込んで天武天皇が即位すると、その後吉野への行幸において草壁皇子を次期天皇にするため互いに争わずに協力すると他の5人の皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子たちと共に誓い合います(吉野の盟約 679年)。
681年、天武天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかったそうですが、19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせます。鸕野讃良皇女(持統天皇)の強い要望があったと推測される。
(ちなみに:天武天皇の3人の皇子とは違って、天智天皇の2人の皇子、つまり第2皇子の川島皇子と、第7皇子の志貴皇子は、壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった彼らは皇位継承とは全く無縁でした。かくして2人の皇子は、皇位継承にかかわらず、温厚でゆったりした人柄で、度量も広かったといいます。この川島皇子の大津皇子の謀反事件での対応に対しては、朝廷からは忠誠を賞され、友人からは薄情さを批判され、事件を議論する者からは天智天皇の皇子との微妙な立場も踏まえ、厚情か薄情かは明らかにしなかった。
(一言:つまり議論の場にいた重役の多くは、上司たる川島皇子を評することを控えた=気をつかったんですね。)
謀反事件の後 草壁皇子は、母:鸕野讃良皇女の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、おそらく、叔母:大田皇女の息子である理由から、大津皇子を押さえ、681年2月に皇太子となります。これにより後継争いには至ることも無く、平穏のうちに皇位継承となるはずでした。
鸕野讃良皇女(持統天皇)の病は癒えて間もない686年)7月、今度は天武天皇が病をえて重態に陥ります。
686年7月に、天武天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになり、天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られます。
このとき皇太子が官人を率いるという新たな形式がとられのは、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったとも言われますが、
このことについては、「草壁皇子の立太子」そのものが、後に皇子の子である軽皇子(文武天皇)への皇位継承を正当化する為に作為されたもので、実際の鸕野讃良(持統天皇)の構想は草壁皇子に葬礼を主宰させることで初めて後継者であることが明らかにしたという説もあります。
また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継ぎます。例えば墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものでした。
民政においては、戸籍を作成、これを庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除しますが、それと同時に奴婢(ぬひ)身分の整とんを試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じます。
(一言:つまり、最下級の労働者にたいしては、生かさず殺さずの政策で、財政資金を得ようとした訳です。)
こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武天皇の権威を自らに移し借りることであったようです。天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったときは権力事情が大きく異なっていたのです。
(一言:虎の威を借るなんとやら。です。)
天武天皇との違いで特徴的な具体例としては、頻繁な吉野行幸があります。夫との思い出の地を訪れるという意味だけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われます。
他に皇族の守護神を祭る伊勢に一度、天智天皇の圧政を逃れて移り住んだ紀伊に一度、壬申の乱で大友皇子と後継を争った近江に一度の行幸が、当時の記録や『万葉集』の記述から推定できるそうです。
これらの行幸はいずれも持統天皇自身の権威を誇示する意図があったと思われますが、とりわけ伊勢行幸においては、続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図があったために、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切ったと指摘されます。
(一言:持統天皇には民の苦しみなど映らず、財政を潤し、権威を保持するためだけの政治だったということが、このエピソードで良くわかりますね。)
それはあたかも過去に、崩御して後に権威を誇示する意味を持った大型の墳墓に代え、生前における権威に重きを移すかのように。
それは、皇族の足跡として古代倭国が朝鮮半島の任那に及んだことを意識した外交だったのでしょう。(一言:権力の頂点に立った持統天皇は、正にプライドのかたまりだったということです。)
ところで、持統天皇の統治期間の大部分には、高市皇子が太政大臣についていたそうです。高市皇子の母:尼子娘の身分は低かったのですが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集め、公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと推察説されるほどだったのです。
恐らくその人柄もあったでしょうが、大津皇子が持統天皇と同じく天智天皇の皇女として生まれた大田皇女を母に持つのに対して、高市皇子の母は尼子娘(あまこのいらつめの)という身分の低い女性だったからなのでしょう。
(一言:「低い身分の母を持つ皇子は、才能があっても大多数の諸侯から信任を得て主人の手を噛むことはない。」持統天皇にはそんな思いが根底にあったのでないでしょうか。プライドの塊だからこその思い込みが、・・・・。)
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