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〜平城京:持統天皇は、プライドの女帝!そして孫へ(続編)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:前ページの続きです。飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
(飛鳥資料館より)
(飛鳥資料館より)
従って少数派の説には、草壁皇子を皇太子につけたそのこと自体が、軽皇子(珂瑠皇子)(文武天皇)の即位を正当化するための試金石であり、鸕野讃良皇后(持統天皇)が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に示したとすら言われています。
(一言:権力の頂点に立った持統天皇にとっては、こんな後世の解釈は、断じて容認できないものでしょう。恐らく当初の後継者と目された草壁皇子が、母の眼から見ても皇位に足る人物ではなく、本人も、自信がなかったのかもしれません。)
『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になります。なぜなら、まだまだ天皇に即位させるには幼い軽皇子(珂瑠皇子)を影から支える存在として高市皇子を重視していたからでしょう。皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子(珂瑠皇子)が皇太子になります。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もあります。
(一言:現政権のトップである持統天皇に、クーデターという言葉をあてることはできませんが・・・。)
葛野王の主張は3つ、
です。
ただし、実際には古来から兄弟間での皇位継承の実例は多く、それについて天武天皇の皇子である弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したため、弓削皇子は何も言えなかった。その結果、数ある天武天皇の皇子達は退けられ、前皇太子・草壁皇子の子で持統天皇の孫でもある軽皇子(珂瑠皇子)(のち文武天皇)が皇太子に定められるのです。
葛野王はその意見により国家の基本が定まったとして、持統天皇から称賛されたといいます。
かくして、家臣より信望が厚く、文字通りカリスマ性のあった天武天皇から皇位を継いだ持統天皇は、ひたすら権威を示すための行動を行い、政務については、妹の子である高市皇子の強力を得て行います。
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堀野さん、あけましておめでとうございます!
年末年始は忙しすぎで、今のご挨拶になりました。
初詣の諏訪大社では、おみくじで「凶」をひいてしまいましたが、
もっと謙虚になって努力せよ、そう解釈しました。
今年も宜しくお願いします!
2015/1/10(土) 午後 7:58 [ 湖池健彦 Essay ]
アロマさん
新年早々つまらない事を言うようですが、多忙な年末年始を押して行った初詣のおみくじで、凶をひいて今日初コメントを頂いたのですね。
ありがとうございます。
2015/1/10(土) 午後 11:04 [ 上から目線 ]