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〜平城京:若くして他界した文武天皇は何を成した?大宝律令?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
−キトラ古墳のページ−
朝鮮半島の円墳は神の国で 変化して
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
これまでにご紹介したように、天武天皇が即位して間もなく、吉野への行幸において6人の皇子、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子たちに対し、我が子草壁皇子を次期天皇にするため互いに争わずに協力することを誓い合せ(吉野の盟約 679年)、その上で皇后である鸕野讃良皇女の強い要望があってか?わずか19才の草壁皇子を皇太子つけました。当時は、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかったにもかかわらずです。
にもかかわらず、天武天皇が重病になると、草壁皇子を補佐する意味で皇子と共に大権を委任さた皇后:鸕野讃良皇女は、自らが政務の実権を握り、天武天皇亡き後も政務を行使し、皇位を得て持統天皇となります。これは、草壁皇子に政務能力が無かったからでしょうか?その憶測を裏づけるかのように、天武天皇が生前重用した大津皇子を、実権を握る持統天皇は謀反の罪で処刑してします。
(一言:ここで疑問です。天武天皇が生前に大権を委任したのは、基本的には草壁皇子で、皇后の鸕野讃良皇女は、草壁皇子の母として後見を任されたに他ならないはずです。だとすると、皇后の鸕野讃良皇女が皇位を得て持統天皇となるためには、当然草壁皇子の承認を得る必要があるはずですが・・・恐らく、母の権限で若い草壁皇子の代わりに暫定的に皇位につくと称して皇位につけたと考えられます。)
天武天皇の後継者であるこを吉野の盟約によって約束されていたはずの草壁皇子を差し置いて、皇后だった持統天皇が天武天皇の後、皇位を継いだからには、当然天武天皇の葬礼を主宰するのは、草壁皇子ではなく、持統天皇のはずです。
ところが実際には、天武天皇の葬礼を主宰したのは、草壁皇子でした。
なぜでしょう?考えられる理由が1つあります。
本来皇位を継ぐべきはずの草壁皇子を差し置いて天皇となった持統天皇が、天武天皇の葬礼をも主宰したのでは、若い草壁皇子に代わって暫定的に皇位を得ているという口実を自ら否定して、「我こそが正当なる大王だ!」と宣言することになり、諸侯から反発をかうのは必至です。なのでここは草壁皇子に葬礼を主宰させたのでしょう。
文武天皇陵こと檜隈安古丘上陵(ひのくまのあこのおかのへのみささぎ)は、
高松塚古墳から東南へおよそ200mのところにあります。
天皇陵の正面は、どれも明治天皇の整備のお陰で、同じ様式になっているので、
直径約28m、高さ約2mの円墳という大きくもなく、これと言った特徴もない
文武天皇陵は、やはり地味な存在です。
文武天皇陵の石碑
この説明版、現地に行けば分かると思いますが、実に撮影しづらい!
地上90センチ位かな?斜面に平行に近い状態で設置されていて、
覗き込むように撮影しなければならないので、こんな画像しか撮れませんでした。
考えられる理由は3つあります。
一つには、草壁皇子には、天皇としての力量が無いと判断した。
という推論が浮かびます。
文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行ですが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられています。
「壬申の乱において功績をあげたことで重んじられてきた家臣に代わって、藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。」とあります。
(一言:つまり、ひたすら権力の維持に努めてきた持統天皇も、上皇となって後はその影響力も次第に薄れて行ったことが伺えると言っているのでしょう。高齢による心身の衰えか?それとも時代の変化に退くべき時を悟ったのでしょうか?)
持統天皇は701年にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
702年12月に病を発し、崩御します。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。」とあります。
【忍壁皇子について】
彼の事績は伝わらないものの、持統天皇に嫌われ、不遇をかこっていた所を藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したという説があるように、696年に高市皇子が没したのに伴い、晩年は天武天皇諸皇子中最年長となり皇族の代表的存在となります。
肝心の文武天皇についてですが、文武天皇 - Wikipediaによれば、
「公式記録には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の697年9月に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。」とあります。
(一言:つまり皇后及び妃の公式記録はなかったものの、妻たる女性はいたということです。従って生まれた子も、皇子・皇女とは呼ばれないということになるのかというと、そうではないようです。)
更に、「皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。
このことについて梅原猛はその著書『黄泉の王』で、文武の妃は紀皇女だったが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのがこの説の核心となっている。」とも記しています。
(一言:雅な和歌集であるはずの万葉集も、裏読みすると結構面白いのですね。)
ところで、このページではここまで触れませんでしたが、平城京への遷都をなした後の元明天皇こと阿閇皇女(あへのひめみこ)は、文武天皇の母です。
ですが夫の死は大勢に影響を及ぼすものではありませんでした。なぜなら、上皇として主に持統天皇が政務を行っていたはずだからです。しかし、その上皇も702年12月に病を発して直ぐに崩御します。
ということは、その後幼い文武天皇を補佐して上皇の代わりに政務を担ったのは皇太后である母:阿閇皇女だったはずです。
しかし、707年7月には、阿閇皇女が夫の命日のため急を要する政務以外は休み,仏事を行なったところ、ついに息子天皇までもが病に倒れ、24歳の若さで崩御してしまいます。この時文武天皇の子:首(おびと)皇子(後の聖武天皇)は6歳、今で言えば小学1年生でした。
(一言:となると誰が次期天皇となりますか?お分かりですよね。一連の話の基となった例の天皇にやっと辿りついたのです。)
かくして文武天皇は、15歳にして天皇となるも、常に上皇として実質的な政務を担っていた持統天皇の影に隠れて、後世に自身の功績とされる証を残す事も無く、24歳にして崩御してしまいます。
(一言:ちなみに、文武天皇の読み方は、「もんむてんのう」ですから。)
当然次回は、「なぜ・・・・が・・・・を・・・・に遷都出来たのか?」の答えとなる話をすべきですが、この時代の皇位継承は、複雑怪奇ですよね。
そこで次回は、一連の天皇や皇子・皇女・妃などがどうなったかを整理してご紹介したいと思います。 ![]() |
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堀野さん、こんばんは!
自分のような浅学な者には難しい話題が続きます。
でも、本当は、こんな話題が学校の歴史の時間に必要なんだと思います。
今年は私も負けないように頑張ります。
なにせ「凶」ですから^^
2015/1/11(日) 午前 0:45 [ 湖池健彦 Essay ]