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〜平城京:天智天皇の子供たち、それぞれのドラマ(1)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
●天智天皇の子供たち●
皇子皇女名 | 天皇名 | 実 母 | 婚 姻 者 | 生年 | 没年 | 享年|死因・その他
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①鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:持統天皇) 第一皇女
持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。
壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある。
②大田皇女(おおたのひめみこ) 第二皇女
大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に死ぬ。死亡当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女(天智天皇の妹。孝徳天皇皇后)とともに葬られた。
同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武天皇の皇后となったかもしれない妃であった。大津皇子にとってこの母を早くに亡くしたことは、皇后所生の草壁皇子との後の対立を含め、人生に大きな影響を与えたと思われる。
③建皇子(たけるのみこ) 第一皇子
建皇子は生まれつき言葉を話せなかったという。原因として、父・倉山田石川麻呂(皇子にとっては祖父)が、中大兄皇子(天智天皇)に処刑され、母・遠智娘は悲しみのあまり狂乱した状態で出産したため、母の精神異常が胎児であった皇子に影響したのではないか、という説がある。
『日本書紀』には、皇子を憐れんで祖母・斉明天皇は皇子をとても可愛がったとに記載されており、自分が崩御した際一緒に合葬せよと命じた。その遺言通り、現在は斉明天皇陵に埋葬されている(近くには叔母・間人皇女と姉・大田皇女も埋葬されている)。
④御名部皇女(みなべのひめみこ)
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