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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜平城京:天智天皇の子供たち、それぞれのドラマ(5
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編  

注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
 
天智天皇の子供たち

皇子皇女名  | 天皇名       実 母      婚  姻  |   生年  | 没 年  | 享年|死因・その他
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鸕野讃良皇女|持統天皇|   蘇我遠智娘   天武天皇  |  645年  703年  | 58歳|病死・を参照

大田皇女   |   な し  |   蘇我遠智娘   | 天武天皇  | 不 詳   667年  | 不明 |病死を参照

建皇子          |   な し  |   蘇我遠智娘   |     な し    651年   | 658年  | 8歳 |病死を参照

御名部皇女    |   な し  |    蘇我姪娘     高市皇子  | 660年?  | 不 詳  | 不明 |不明を参照

阿閇皇女   |元明天皇|    蘇我姪娘    草壁皇子  661年    721年  | 60歳|病死を参照

山辺皇女   |   な し   |     常陸娘       大津皇子  | 663年?  | 686年 |23歳?|殉死を参照

明日香皇女    |   な し   |    阿倍橘娘    |    な し    | 不 詳   | 700年 | 不明 |病死を参照

新田部皇女    |   な し   |    阿倍橘娘    | 天武天皇  | 不 詳   | 699年  | 不明 |不明を参照

志貴皇子   |   な し   |越道君伊羅都売| 紀橡姫  | 不 詳   | 716年  | 不明 |老衰?を参照

大友皇子      |弘文天皇| 伊賀采女宅子娘|十市皇女|  648年  | 672年  24歳|自殺を参照

阿閇皇子    |   な し   |伊賀采女宅子娘|    な し    |  648年  | 不 詳  | 不明 |自殺を参照

阿雅皇女   |   な し   |伊賀采女宅子娘|   不 明    648以降| 709年?| 不明 |不明を参照

川島皇子       |  な し    忍海色夫古娘  |泊瀬部皇女|  657年  | 691年  | 34歳|落胆死?を参照

大江皇女       |  な し    忍海色夫古娘  | 天武天皇   不 詳  | 699年  | 不明 |絶望を参照

泉皇女     |  な し    忍海色夫古娘  |   な し     |669年前後| 734年  | 不明 |65歳を参照

水主皇女       |  な し    |    黒 媛 娘      |   な し     |  不 詳  | 737年  | 不明 |老衰?を参照


大江皇女 (おおえのひめみこ)
実の子:長皇子弓削皇子 /実の弟弓削皇子/実の妹:泉皇女

息子弓削皇子(ゆげのみこ死後、後を追うように699年12月3日に薨去した。皇女かつ天皇の后の一人でありながら史料への露出は乏しく、事績は不明な点が多い。

泉皇女(いずみのひめみこ) 第九代皇女 別称は泉内親王
実の子:なし /実の兄川島皇子/実の兄姉大江皇女

泉皇女母は天智天皇の後宮女官ある宮人(めしをみな)、色夫古(しこぶこのいらつめ)で、同母兄姉に大江皇女川島皇子がいる。伊勢斎王
年齢は不明ですが、兄の川嶋皇子の生年と、天智天皇の没年から逆算すると天智7〜9年(668年〜670年)生まれで、斎宮に占いによって定められた701年2月には33・34歳、退下時には38〜39歳であったと思われます。
大津皇子に謀反の意志があると密告したことで知られる川嶋皇子の同母妹にあたる。
川嶋皇子密告によって大津皇子死罪にされたのは、686年。
そして大津皇子の処刑から五年後の691年に、川島皇子は三十代の若さで亡くなっている。
泉皇女伊勢斎王となったのはその後のこと。
5年という長い潔斎ののちに伊勢に赴きましたが、わずか半年で退下した。
斎王紹介 - 明和町役場では、「この異例の五年に渡る潔斎は、まだ当時斎宮寮の機構が整えられている時期だったためと考えられる。」としていますが、これについては後日天武天皇の子供たちをご紹介した上で謀反事件にかかわる大津皇子・川島皇子・泉皇女について考察してみたいと思います。
715年1月に帰京後、三品に叙せられていた泉皇女は、封戸100戸を加増された。
その後、時期は定かではないものの二品に叙せられたこと以外、その後の消息は定かではなく、734年2月に、おそらくは未婚のまま、65・66歳で死去する。
潔斎
法会・写経・神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴(もくよく)などして心身を清めること。物忌み。

水主皇女(みぬしのひめみこ)
実の子:不明 /実の兄:不明

水主皇女の母は栗隈首徳万の娘、黒媛娘。名前はもいとりともいう。
天智天皇の皇子女では、最後まで生き残ったが、他の皇女とは違い、彼女に関する詳細な記録はほとんど無く、どのような人生を送ったかは不明な点が多い。晩年元正天皇に仕えていたらしく、病気で宮中に出仕できずにいた水主皇女を慰める為、雪を詠った歌を作る様、元正天皇が命じ、石川郎女が奉上した歌が「万葉集」巻20−4439に残されている。
まつがえの つちにつくまで ふるゆきを みずてやいもが こもりをるらむ
松が枝の地につくまで降る雪を 見ずてや妹が籠もりをるらむ [巻20-4439]
    (大意)
松の枝先が地につくまでに降り積もる今日の雪を見ないであなたは今も閉じこもっておられますか  
一言:この歌は、本当に水主皇女の心を慰めたのでしょうか?私なら不甲斐ない自信の状況を思ってなおさら落ち込みそうです。せめて、「松も雪の重みに耐えて冬を越そうとしています。今を耐えれば貴方にも春はきっと訪れますよ。」的な内容の歌を詠めばよかったのに。
熱心な仏教信者だったようで、734年大和国広瀬郡の水陸田を購入し弘福寺に施入している。彼女が作成した「水主宮経」は写経の為に各所に貸し出され、目録も作られたほどである。天平9年(737年)2月14日三品に昇進し、その年の8月20日に薨去した。
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