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〜平城京:天智天皇の子供たち、それぞれのドラマ(5)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。
●天智天皇の子供たち●
皇子皇女名 | 天皇名 | 実 母 | 婚 姻 者 | 生年 | 没 年 | 享年|死因・その他
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⑭大江皇女 (おおえのひめみこ)
息子弓削皇子(ゆげのみこ)の死後、後を追うように699年12月3日に薨去した。皇女かつ天皇の后の一人でありながら史料への露出は乏しく、事績は不明な点が多い。
⑮泉皇女(いずみのひめみこ) 第九代皇女 別称は泉内親王
斎王紹介 - 明和町役場によれば、
年齢は不明ですが、兄の川嶋皇子の生年と、天智天皇の没年から逆算すると天智7〜9年(668年〜670年)生まれで、斎宮に占いによって定められた701年2月には33・34歳、退下時には38〜39歳であったと思われます。
大津皇子に謀反の意志があると密告したことで知られる川嶋皇子の同母妹にあたる。
川嶋皇子の密告によって大津皇子が死罪にされたのは、686年。
そして大津皇子の処刑から五年後の691年に、川島皇子は三十代の若さで亡くなっている。
泉皇女が伊勢斎王となったのはその後のこと。
5年という長い潔斎ののちに伊勢に赴きましたが、わずか半年で退下した。
斎王紹介 - 明和町役場では、「この異例の五年に渡る潔斎は、まだ当時斎宮寮の機構が整えられている時期だったためと考えられる。」としていますが、これについては後日、天武天皇の子供たちをご紹介した上での謀反事件にかかわる大津皇子・川島皇子・泉皇女について考察してみたいと思います。
その後、時期は定かではないものの二品に叙せられたこと以外、その後の消息は定かではなく、734年2月に、おそらくは未婚のまま、65・66歳で死去する。
【潔斎】
法会・写経・神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴(もくよく)などして心身を清めること。物忌み。 ⑯水主皇女(みぬしのひめみこ)
実の子:不明 /実の兄妹:不明
水主皇女の母は栗隈首徳万の娘、黒媛娘。名前はもいとりともいう。
天智天皇の皇子女では、最後まで生き残ったが、他の皇女とは違い、彼女に関する詳細な記録はほとんど無く、どのような人生を送ったかは不明な点が多い。晩年元正天皇に仕えていたらしく、病気で宮中に出仕できずにいた水主皇女を慰める為、雪を詠った歌を作る様、元正天皇が命じ、石川郎女が奉上した歌が「万葉集」巻20−4439に残されている。
まつがえの つちにつくまで ふるゆきを みずてやいもが こもりをるらむ
松が枝の地につくまで降る雪を 見ずてや妹が籠もりをるらむ [巻20-4439]
(大意)
松の枝先が地につくまでに降り積もる今日の雪を見ないであなたは今も閉じこもっておられますか
(一言:この歌は、本当に水主皇女の心を慰めたのでしょうか?私なら不甲斐ない自信の状況を思ってなおさら落ち込みそうです。せめて、「松も雪の重みに耐えて冬を越そうとしています。今を耐えれば貴方にも春はきっと訪れますよ。」的な内容の歌を詠めばよかったのに。)
熱心な仏教信者だったようで、734年大和国広瀬郡の水陸田を購入し弘福寺に施入している。彼女が作成した「水主宮経」は写経の為に各所に貸し出され、目録も作られたほどである。天平9年(737年)2月14日三品に昇進し、その年の8月20日に薨去した。
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