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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜平城京:なぜ第四皇女の元明天皇が平城京遷都を成し得たか?結論
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編  

注:飛鳥時代のお話ですが、平城京への遷都までの道のりとしてご紹介しています。

〜平城京:若くして他界した文武天皇は何を成した?大宝律令?でほぼ結論は出ていますが、日本神話の基となった天皇家の系譜にまつわるお話、具体的には皇極天皇元明天皇の一連のお話の出発点となった疑問、「なぜ第四皇女として生まれた阿閇皇女(あへのひめみこ:阿部皇女とも)こと元明天皇が、平城京遷都という重大な事業をなし得たのか?」に対して、きっちりと私なりの結論を示す必要はあると思いますので。お付き合い下さい。

イメージ 1
平城京跡 太極殿夕景
(一目線で撮影)

イメージ 2
平城京跡 太極殿夕景
(高さ9メートルから撮影)

天武天皇の後継者であるこを吉野の盟約によって約束されていたはずの草壁皇子を差し置いて天皇となったのは、天武天皇の皇后である鸕野讃良皇女こと統天皇で、その後も草壁皇子には皇位を継承されることなく病死します。
結果的に統天皇が皇位を譲位したのは、草壁皇子の子、統天皇から見れば孫軽皇子(珂瑠皇子)でした。軽皇子(珂瑠皇子)はわずか15歳で文武天皇となります。
平城京への遷都をなした後の元明天皇こと阿閇皇女(あへのひめみこ:阿部皇女ともは、文武天皇の母です。
阿閇皇女我が子が文武天皇となったことで皇太妃となりますが、夫・草壁皇子は、皇位につくことなく689年、27歳で薨去します。
文武天皇の代になっても政務を行っていたは上皇である持統天皇だったはずです。しかし、その上皇も702年12月に病を発して直ぐに崩御します。
ということは、その後幼い文武天皇を補佐して上皇の代わりに政務を担ったのは皇太后である母:阿閇皇女だったはずです。
しかし、707年7月には、阿閇皇女が夫の命日のため急を要する政務以外は休み,仏事を行なったところ、ついに阿閇皇女息子:文武天皇までもが病に倒れ、24歳の若さで崩御してしまいます。この時文武天皇の子:皇子(おびとのみこ:701-756年)(後の聖武天皇)は6歳、今で言えば小学1年生でした。
ここまでは上記した文武天皇のページでご紹介しました。
結論から言えば、当時皇太后だった阿閇皇女から見れば、姑:持統天皇当時上皇)、夫:草壁皇子、我が子:文武天皇次々に他界した結果、王位継承権のある者として残されたのは、わずか6歳の孫:皇子だけだったのです。
さすがに6歳児に政務を担う力などあろうはずがありません。止む無く阿閇皇女が政務を担うことになり、中継ぎとして、歴史上初めて皇后経ないで即位した。
だからと言って、これだけをもって彼女が平城京遷都の担い手となったとは結論付けられません。
この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、そのため、実務に長けていた藤原不比等を重用します。
710年4月藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

藤原京から平城京への遷都の理由として
衛生上の問題
南東が高く北西が低い地形だったため、汚物を含む汚水が宮殿近くに流れ込み疫病が流行した。
これは水利の不備でもあります。
構成上の欠陥
藤原京遷都後に派遣された遣唐使の報告により、長安と構成があまりに違い問題になった。
特に南に山があり、ちょうど宮殿を見下ろす事が出来、軍事的にも権威的にも問題があった。
藤原不比等の意向
飛鳥に近い事もあり、藤原京周辺は古代有力豪族がひしめく地域でもありました。
そのため権力独占を狙う不比等には都合が悪く、離れた位置に都を移す必要があった。
という3つの理由を挙げています。

ところで平城京遷都の理由で検索して第2位にヒットする日本史ー奈良時代1、平城京遷都には、
文武天皇が亡くなった後、血筋から云えば文武天皇藤原不比等の娘藤原宮子(ふじわらのみやこ)の間に生まれた子、首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)が天皇となるべきだった。
しかし彼は14歳であったため、叔母の阿陪皇女が女帝して即位、元明天皇(げんめいてんのう)(661-在位707-715-721)となったのである。」と紹介しています。
しかし、これは計算間違いでしょう。元明天皇が即位したのは707年、皇子701-756年に生存した方ですから。
首皇子14歳というのは、平城京遷都の時の年齢でしょう。

それはともかく、 平城京への遷都は、即位した707年のうちに協議がなされたそうです。
つまり元明天皇は、遷都ありきで即位したのです。
翌年には「遷都の詔」が出され、710年の遷都までに新たな都の整備が急ピッチで進められることになった。また同年708年には、武蔵国の秩父より和銅(わどう・にきあかがね)(精錬を要しない自然の銅)が献上されたので、これに合わせて元号を和銅(わどう)と改め、唐で鋳造されていた開元通宝(かいげんつうほう)に書体まで真似て和同開珎(わどうかいちん)という鋳造貨幣を作らせた。前に鋳造された富本銭(ふほんせん)は、一般流通貨幣として認められるかどうか曖昧なので、現時点ではこれが政府発行の流通貨幣第一号とも考えられる。しかし実際は、それ以前から無文銀銭(むもんぎんせん)が流通貨幣として使用されていたらしい。これは政府の公式通貨ではなく私鋳銭(しちゅうせん)である。
これ以後、958年の乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造まで、合わせて12種類の銭のことを本朝(ほんちょう)(皇朝)十二銭と呼ぶそうだ。この貨幣鋳造は、唐を倣い先進国に足並みを揃えようとする意志と共に、遷都費用の支払いのために重要な意味があったとも考えられる。ワンコインが律令制度の金銭単位である1文にあたるとされ、米2kgぐらいの価値を持つというが、銭の流通は畿内を中心として限定的であった。当時は、米などの物品を金銭代わりに利用する経済の方が圧倒的だったのである。
流通促進のため、711年には蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)も出された。これは例えば「和同開珎1万枚貯めると、あなたの位階が上昇します」というようなものだったが、枚数が多すぎるのと、銭を貯めこんで流通しなくなるという矛盾から、何の意味もなさなかったようだ。
710年、ついに都は奈良の平城京に移された。もちろんすべてがこの時移動できたはずもない。まずは内裏(だいり)など政治中枢部を中心にして新都が順次建造されていった。(ちなみに藤原京の宮は翌年711年に火災で燃えてしまったという資料がある。)
この遷都の理由は所説あるが、669年以来しばらく途絶えていた遣唐使が702年に再開されたこともあり、律令制度の整備や、歴史書の編纂といった国家プロジェクトの進行とも合わせて考えると、唐風の都市プランとは少し異なっていた藤原京に対して、唐風の新しい都を建設する気運が高まっていたのかもしれない。藤原京では、ほぼ中心部に宮が位置していたのである。(ただし平城京も直接長安などを模したものではないとする考えもある。)
また続日本紀に、「帝王が都を作って壮麗でなければ万国の使者をいかんせん」というような趣旨が書かれていることから、諸外国使者をも黙らせる優れた都を築き、これを中心に置いた中央集権支配を推し進める狙いがあったとも考えられる。律令制の整備や、都へ向かう直線道路の整備など、この時期の日本は、唐と対等に付き合えるほどの国家建設、つまり小中華帝国を目指していたからである。
また元明天皇の言葉に「四禽図にかない、三山鎮をなす」とあるが、風水に則った四神相応(しじんそうおう)の地に都を置くべしという、呪術的な祈願が高まったのかもしれない。詳しく説明すると大変になってしまうが、要するに方角を司る四神(青龍・朱雀・白虎・玄武で東南西北)に対応して、「東に河あり、南に沼・湖あり、西に大道あり、北に山あり」といった地形のことである。「三山鎮をなす」の方は、春日山(東)、西ノ京or生駒山(西)、奈良山(北)によって鎮(しず)められている地形を指すそうだ。
さらに都市排水や都市環境の整備上、より優れた都市を建設できると考えたからかも知れない。そしてそれ以外にも大きな意味があったとされる。それは藤原京が飛鳥に近く旧来の豪族精力が強く、律令的政治が行いにくいのを改めようとしたというもので、天皇の願いがあったかも知れないが、むしろ当時権力を拡大していた藤原不比等が、自らの政治基盤拡大のため、旧勢力からの離脱を狙った可能性も否定できない。現にこの平城京の移転後、藤原京左大臣石上麻呂が管理者として残留し、右大臣の不比等が事実上の最高権力者となったからである。藤原氏がこの遷都に中心的役割を果たした可能性は否定できない。
「なぜ藤原京から平城京に遷都したか。遷都の理由藤原京という都市の環境悪化をあげる説があるが、古代の遷都は、都市環境の変化といった非政治的条件でなされるものではない。この時の権力は藤原不比等の手中にあった。孫の首皇子の即位に向かって流れをつくった不比等は、孫のために壮大な舞台を用意せねばならなかった。
それは同時に藤原氏一族のためでもあった。不比等は新羅の慶州の影響を受けた藤原京を捨て唐の長安城をモデルとする平城京をつくる決意をした。律令が国家のソフト面とするならば、都城はハード面である。こうして、国家の形が堅固になりつつあった。
平城京は、藤原不比等が孫の首皇子のために建設した宮都であった。不比等の夢は、藤原氏の血統から天皇を出すことであった。
その夢は、見事に実現した。聖武天皇の夢は、光明皇后とともに、大仏、華厳経の教主 廬遮那仏 るしゃなぶつ像の造立や国分寺・尼寺の建立し仏教による護国国家を創生した。しかし、ふりかえってみると、平城京というドラマを演じたのは、聖武天皇光明皇后のみであるのだ。あまりにも主人公の少ない時代であった。・・・・・・聖武天皇の時代をすぎると「ヤマトの時代」は、かげりをみせていく。」
と断言しています。
なぜ藤原京を捨てて平城京に遷都したのか?
藤原京がせまくなったとか新しい律令国家としての意気込みを作るだとか、
首皇子が天皇として華々しくデビューする舞台を整えるためとか諸説あります
しかしハッキリした理由はわかりません。
とにかく遷都は不比等が中心となって行われました。
不比等は、後妻である県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)
との間に生まれた光明子(こうみょうし)を716年、首皇子に嫁がせます。
この時首皇子16歳。光明子も16歳。同い年の夫婦です。
こうして不比等は天皇家の母方の親戚、つまり外戚となって権力を握っていき、720年、享年61で逝去しますが、死後太政大臣正一位を贈られました。
不比等の四人の息子たちを武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)と言い、それぞれ藤原南家、藤原北家、藤原式家、藤原京家開祖となります。
(一言:不比等四人の息子たちの内、特に武智麻呂(むちまろ)などは、不比等の野心がありありと見える名です。なぜなら、天武天皇と天智天皇の血を引く者が、我が子:武智麻呂といっているようなものですから。
ともわれ、715年には郷里制が実施されたものの、同年9月2日元明天皇自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。
そして721年5月に発病し、娘婿の長屋王藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。

かくして、天智天皇第四皇女だった元明天皇は、実務に長けた藤原鎌足の子:不比等を重用し、不比等は、やがて我が娘:光明子を後の天皇となる元明天皇の孫:首皇子に嫁がせることで権力をほしいままとしますが、元明天皇から見れば、不比等の能力と威勢を借りることで、幼い皇子を後継者とするために、苦肉の策として利用した。言わばウィウィの関係を持ったのでしょう。

そこで結論です。
天智天皇第四皇女だった元明天皇が、平城京遷都という大事業をなぜなし得たか?」の答えは、
母、夫、子という皇位継承権のある家族たちに次々と先立たれ、残された孫の首皇子の中継ぎとして、極めて異例なかたちで女性天皇となった阿閇皇女こと元明天皇、苦肉の策として藤原不比等の力を借りることで、平城京遷都を成したのです。


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