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〜小山田遺跡:飛鳥最大の方墳は舒明天皇の初葬墓?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
今更ですが、考古学ファン注目の発表として、今年になってにわかに注目を集めている小山田(こやまだ)遺跡のニュースがあります。
石舞台古墳をもしのぐ規模のこの古墳は、「舒明天皇」の滑谷岡陵か、それとも「蝦夷の墓」説の研究者もいるようです。
今回、「明日香に未知の巨大古墳が!?」とニュースになったのは1月15日(木)のことでしたが、そもそも発掘調査が始まったのは40年ほど前のことだそうです。
場所は、現場は県立明日香養護学校の敷地内で普段は立ち入ることができません。
この学校の敷地内から木簡が出たことがきっかけで調査が始まり、石舞台古墳を越える全長50m超規模の古墳の存在が明らかになりました。
現地の南西に平田梅山古墳(欽明陵)、南に野口王墓古墳(天武・持統陵)があります。
最初に見つかった遺構は「溝」で、全面に石が敷き詰められており、北側には大きな石が、南側には板状の石が階段状に並べられていました。これがその写真で、下の方は緑色の結晶片岩(緑泥片岩)、上の方は室生安山岩(榛原石)でした。この板石状の積み方は、桜井市にある段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)にも見られるものであることから、段ノ塚への改葬前の舒明陵がここだったのではないか?という意見が出ているわけです。
「奈良県明日香村川原の小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)の巨大な古墳の墳丘の一部と濠(ほり)跡が見つかり15日、橿原考古学研究所(橿考研)が発表した。一辺50メートル以上の方墳と推定され、蘇我馬子(そがの・うまこ)の墓といわれる石舞台古墳を上回り、飛鳥時代最大級の規模。榛原石(はいばらいし)と呼ばれる薄茶色の室生(むろう)安山岩の切石で装飾されており、橿考研は規模や築造時期などから第34代の舒明(じょめい)天皇の初葬墓(しょそうぼ、改葬前の墓)で、日本書紀に登場する滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみている。
ただ、発掘場所が大豪族・蘇我氏の邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)に近く、蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の墓として日本書紀に登場する双墓(ならびのはか)のうちの蝦夷の大陵(おおみささぎ)と考える研究者もおり今後議論を呼びそうだ。」と記されています。
現地は当時の大豪族蘇我蝦夷、入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘の丘陵の南端。伝承のない場所で巨大な古墳が見つかるのは異例なのだそうです。
遺構の状況や付近の地形などから、古墳は馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50メートルの方墳)より大きい一辺50メートル以上の方墳で、下段部が榛原石で装飾されていたとみられる。見つかった土器などから築造時期は7世紀中頃とみられ、溝は一辺50メートル超の飛鳥最大の古墳とみられ、橿原考古学研究所は中大兄皇子の父、舒明天皇が最初に葬られた墓と推定。研究者からは蝦夷の墓や未知の遺跡との見方も出ている。中大兄皇子(後の天智天皇)らは645年の乙巳の変で蝦夷、入鹿親子を滅ぼしました。
蘇我氏と天皇家の関係を示す系図
上記の内容は、これまでに報道などで紹介されているものですが、
次回はこの内容から、小山田(こやまだ)遺跡を考えてみます。 ![]() |
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