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〜小山田遺跡:舒明天皇初葬墓の可能性を考える〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!平城京編
これまでに当ブログでは記紀神話、つまり古事記や日本書紀に記されているという天孫降臨からの日本神話のモデルではないかとされている天皇家の系譜、皇極天皇(斉明天皇)から聖武天皇までのお話を記してきました。
ところが、今回話題となっている小山田遺跡の被葬者は、これまでの記述の始まりの皇極天皇(斉明天皇)の夫だった舒明天皇、もしくは皇極天皇(斉明天皇)の子中大兄皇子(後の天智天皇)が滅ぼした蘇我蝦夷、入鹿ではないかとされています。
つまり当ブログが既に紹介した記述の一歩手前のお話にさかのぼる必要があります。
舒明天皇は、(593年?−629年)。蘇我蝦夷は、(586年?−645年)の人物とされ、共に皇極天皇の時代に亡くなっています。
以下に紹介している『
蘇我氏と天皇家の関係を示す系図
』を見れば一目瞭然ですが、舒明天皇も蘇我馬子の血を引く存在です。そもそも舒明天皇とは、どんな経緯で天皇となったのでしょう。
舒明天皇 - Wikipediaにはこのような記述があります。「先代の推古天皇は、628年4月に崩御した時、後継ぎを定めていなかった。
蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。
これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡(かいらい)にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。」と。
このような記述を見れば、その当時蘇我氏の邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)の麓に舒明天皇の初葬墓を築造したとしても不思議はありませんね。
ですが、後にそんな権勢を欲しいままにした蘇我氏も、逆賊として滅ぼされてしまったことは皆さんご存知ですよね。
そうなれば、滅ぼした側の舒明天皇の子孫である天智天皇にしてみれば、いつまでも蘇我氏の拠点が有った甘樫丘(あまかしのおか)の地に舒明天皇の御陵をとどめ置くことはできません。
だからこそ、御陵を奈良県桜井市にある段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)に移したのかもしれません。
皇極天皇 - Wikipediaにはこのような記述もあります。「舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年)1月、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害します。
山背大兄王は聖徳太子の皇子とされ、蘇我氏の血を引く者たというのに。
舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにも関わらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説もある・・・。」と。
蘇我蝦夷が、舒明天皇に引き続き皇極天皇も蝦夷の傀儡として擁立したことにより、敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女の血統としての優位性をくつがえして中大兄皇子こと天智天皇へと続く皇位継承を可能にしたと見ることが出来ます。
そんな皇位の後ろ盾となった蘇我蝦夷とその子:蘇我入鹿を、いざ位皇についた天智天皇にとっては、今度はその絶大な蘇我氏の権力が邪魔となり、蘇我蝦夷、入鹿を滅ぼしてしまったと解釈できます。
小山田遺跡が舒明天皇の初葬墓とするならば、その後移築された段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)はより巨大な墳墓のはず。と考えるのが普通です。
調べてみると小山田遺跡が一辺50メートルほどの方墳であるのに対して、段ノ塚古墳は八角対辺長約42m・下方前面約105mの巨大な上八角下方墳とも言うべき姿をしていますので、私たちの予想を裏切るものではありません。
ですが、あまりに特異な形状の古墳としたのはなぜでしょうね。
左:小山田遺跡 右:段ノ塚古墳右のある場所を示す地図
蘇我氏と天皇家の関係を示す系図
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