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〜明日香村:都塚古墳の墳丘と外部施設〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
小山田遺跡のニュースをきっかけに、蘇我氏に話が及びました。
なのでこれより後はしばらく、蘇我氏にまつわるお話をしたいと思います。
まず今回は、都塚古墳についてです。
小山田遺跡で発掘されている巨大方墳は、明日香村における最大規模の方墳だということは、先日ご紹介しました。
私たち一般人にしてみれば、巨大古墳といえば、やはり古墳時代の中〜後期の前方後円墳で、その被葬者は、天皇と考えるのが普通です。
ところが、明日香村にも天皇陵や前方後円墳があるにもかかわらず、小山田遺跡のそれは前方後円墳ではありません。加えて被葬者として推定されているのは、舒明天皇もしくは曽我蝦夷で、私的に現時点では、蘇我蝦夷とする説を支持しています。
ところで、今回ご紹介する都塚古墳は、蘇我蝦夷の父:蘇我稲目が被葬者ではないかと言われています。
都塚古墳も、ここ数年で発掘されてたように思われがちですが、昭和42年(1967)には既に発掘調査が行われたそうです。
【都塚古墳の説明書の記述】
1.はじめに
都塚古墳は、奈良県高市郡明日香村大字阪田ミヤコ938番地ほかに所在する後期古墳です。
正月元旦には金鳥が鳴く金鳥伝説があり、別名金鳥塚とも呼ばれています。
古墳の周辺は 6世紀から7世紀にかけて蘇我馬子ら蘇我一族の本拠地でした。
また、司馬達等(しば だっと)が坂田原に草堂を建て、その子鞍作多須奈(くらつくりの たすな)が用命天皇の病気平癒を祈願して建てたとされる坂田寺や蘇我馬子の墓とされれる石舞台古墳、さらに蘇我馬子の邸宅とされる島圧遺跡、大海人皇子(後の天武天皇)や持統天皇が吉野へ訪れる際に通った古道など、飛鳥時代の幕開けに重要な役割を担った遺跡が広がる地域でもありました。
都塚古墳は1967年(昭和42)年には関西大学により発掘調査が行われ、玄室内には凝灰岩製の家型石棺と棺台の存在から木棺が追葬さえていたことがあきらかになりました。
昭和42年の調査では墳丘部分の調査は行われていなかったことから、全貌解明に向けた範囲確認調査を平成25年度から2ヵ年で調査を実施しています。
2.墳丘と外部施設
墳丘は南から伸びる尾根上に位置しています。墳丘は礫などで構成された基盤層を整形しあ方墳で、最下段の法面には川原石を施しています。
さらに上部の墳丘部分は段状にした石積みが行なわれています。この段状の石積みは四段確認されていますが、さらに数段増えるものと推定されます。
規模については、東西の調査区と北側の調査区で墳丘袖部を検出しており、これをもとに復元すると東西41m、南北約42m、高さは4.5m以上、西側の見かけの高さは7m以上に復元することができます。
墳丘北側の裾部には幅 1〜1.5m、深さ約0.4mの周濠があり、北側の法面には人頭大の石材で護岸を行っています。
べんぎ上周濠を墳丘に近接して描きましたが、
以下の調査区を見れば分かる通り、実際はかなり離れて周濠があります。
(2014.8.14.毎日新聞より)
図のなかの調査部位写真は、古墳の全体像を知るために
チョイスした部位を掘った場所の画像です。
念のため:掘られた部位(調査区)は四角に掘っているのであって、
遺構の形が四角なのでは決してありません。
以下は上の現地に設置されていた説明lパネルの画像を大写ししたものです。
墳丘の最下段は斜面に川原石が敷かれ、テラス面は幅が約6mの広さがあった。
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