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〜天武天皇の時代になって、蘇我氏に対する評価は大転換?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
そもそも官位制度の始まりは、604年に制定された冠位十二階(かんいじゅうにかい)で、推古天皇の時代です。
蘇我馬子は聖徳太子と共に誰に冠位を授けるかを決める人事権を握っていたことで、諸侯に対して圧倒的かつ支配的な権力をもっていましたが、八色の姓(やくさのかばね)という制度が施行されたのは天武天皇の時代、つまり蘇我氏本家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)が、天智天皇・中臣鎌足らによって逆賊として滅ぼされて後のことです。
にもかかわらず、蘇我氏の先祖である武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石河宿禰(そが の いしかわ の すくね)に新しく制定された八色の姓(やくさのかばね)の一つである宿禰の姓があたえられているということは、生存しない過去の者にもさかのぼって与えられたということになる。
という意味のことまでは、前回のページでご紹介しました。
ところで、皆さんは上記の内容に違和感を覚えないでしょうか?
「別に!」と内心思っている方も多いかもしれませんので、今回のページでは私が感じたその違和感について記します。
私が感じた違和感とは何か?
それは大化の改新(645年)以後の天武天皇時代の684年に、蘇我氏の先祖に宿禰の姓を対して与えたという事です。
より明確に言えば、先々代天皇である天智天皇の世に蘇我氏が逆賊として滅ばされたにもかかわらず、天武天皇時代の八色の姓という新制度において、あえて逆賊の祖先に他の諸侯に比べて圧倒的高位身分を意味する宿禰という姓を与えること事態、常識で考えれば有りえないことだと思えるからです。
このことはつまり、天智天皇の時代に蘇我蝦夷・入鹿の親子に対しての逆賊との評価が、天武天皇時代には180度転換したということになりますよね。
だとすればそれは何故か?
思い出してください。以前当ブログの〜平城京:天武天皇と皇極天皇の第1子の謎を考えて〜の中で、天智天皇は舒明天皇の子ですが、その実の兄弟であるはずの天武天皇には、『日本書紀』の編纂を命じたのが天武天皇であるにもかかわらず、生没年が不明、などの謎があり、天武天皇は舒明天皇と皇極天皇との子ではなく、皇極天皇の初婚の相手である高向王との間に生まれた子:漢皇子ではないか?との説があるとご紹介しました。
蘇我氏が高句麗の血筋であるとする説と同様に、天武天皇もまた上記の説を信じるならば、中国の漢民族の血筋を引く者だった可能性も考えられるのです。
天智天皇(中大兄皇子)が病の中で次なる後継者としての我が子:大友皇子(弘文天皇)にとって障害となる大海人皇子(天武天皇)は抹殺すべき存在でした。
そのことを察した大海人皇子(天武天皇)は皇后(持統天皇)らと共に吉野に逃れ、後に諸侯の指示を得ながら大友皇子(弘文天皇)を自害に追い込み勝利しました。
これによって皇位を継承した大海人皇子(天武天皇)は、兄弟ではあっても天智天皇(中大兄皇子)とは間逆の評価を蘇我氏に与えたとしても不思議はありません。
そもそも〜平城京:天武天皇もまた権力の強化をはかり〜で記したように、大化の改新前に起こった乙巳の変は、舒明天皇の第一皇子であり(皇極天皇を母としない)、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、大臣・蘇我入鹿が、天皇に擁立しようと望んでいたために、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(厩戸皇子=聖徳太子の子)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼしたのです。そしてその時、山背大兄王に皇位を継がせるための中継ぎとして蘇我入鹿が擁立したのが、天武天皇・天智天皇の母:皇極天皇だったと言われ、このことが、天智天皇と蘇我氏の関係悪化を決定的にし、皮肉にもこれに端を発して蘇我入鹿自身が暗殺されたのです。
(一言:つまりこの時蘇我氏を敵対視していたのは、天智天皇だけ。とも言えます。)
蘇我入鹿首塚
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