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〜蘇我氏の始まりが大阪府富田林?とは驚きです〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
蘇我石川宿禰 - Wikipediaによれば、
蘇我氏およびその同族の伝説上の祖とされる蘇我石川宿禰(そが の いしかわ の すくね)は、第八代:孝元天皇の血筋を汲む武内宿禰の子で、。『古事記』孝元天皇段では、武内宿禰(建内宿禰)の子7男2女のうちの第三子として記載されているそうです。
【阿花王について】
阿莘王(あしんおう、生年不詳 - 405年)は百済の第17代の王(在位:392年- 405年)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされます。
阿花王(あくえおう=阿莘王)は、朝鮮半島の三国時代における百済の第15代のの長男でしたが、父である枕流王が385年11月に死去したとき、まだ幼かったため、代って叔父が第16代の王位を継ぎますが、その叔父も392年11月に死去したことにより、改めて阿花王(あくえおう=阿莘王)が第17代の王位についた。というのが朝鮮側の資料(三国史記)には記さているらしいのですが、
『日本書紀』には即位の経緯について朝鮮側の説とは異なる記述があり、そこに蘇我氏の祖:蘇我石川宿禰(そが の いしかわ の すくね)が登場します。
先に阿花王(あくえおう=阿莘王)について説明しておきますね。
阿花王(あくえおう=阿莘王)は、即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた城百済北辺の要衝の地にあったため、その奪回を企てます。
勇将であった王妃の父を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしますが、高句麗兵の籠城戦(ろうじょうせん)の前に物資などが途切れたために撤退します。
翌年も高句麗戦に敗れ、さらに396年には逆に自国の城にまで攻め入られて大敗します。
(一言:つまり阿花王(あくえおう)は、即位前から高句麗に劣勢を強いられていたのです。)
結果阿花王(あくえおう)は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されてます。しかしその一方で服属を誓いながらも、倭国(古代日本)との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、太子(阿花王の後継者:後の腆支王)を倭国(古代日本)へ人質として送って高句麗との戦いは続けられましたが、敗戦を重ねるだけでした。
また、399年高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にありました。
この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じ、403年には新羅への侵攻も試みている。
倭国との修好についてはこのほか、『三国史記』によれば402年5月にも使者を派遣(目的は宝玉の入手か)しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらった、と記されています。(ただし、使者の往来に関する記事は日本側の資料には見られない。また、『古事記』に記される「百済から献上された和邇吉師(王仁)」は阿花王(あくえおう)の時代に相当するが、王仁に比定されうる人物は半島側の資料には見られない。)
阿花王(あくえおう)405年9月に在位14年にして死去しますが、後継者たる阿花王の太子は(倭国に人質としていたため、太子が帰国し、即位するまでの間に兄弟間での内乱が生じている。
(一言:ようするに、朝鮮半島で劣勢だった百済にとっては助っ人として倭国の手助けが必要だったし、倭国にとっても百済を介して朝鮮半島での勢力拡大が望めたということです。)
上記の百済の国情を踏まえて、蘇我氏の祖:蘇我石川宿禰(そが の いしかわ の すくね)が登場する
記述を紹介します。
朝鮮半島での劣勢を挽回(ばんかい)すべく倭国の支援を得んがために人質として朝廷のもとに送られたのが当時の百済の太子:阿花王(あくえおう=阿莘王)でしたが、
『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王(しんしおう:阿花王の叔父)が天皇に礼を失したので、蘇我石川宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰とともに朝鮮半島に遣わされ、その無礼を責めます。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪したことで蘇我石川宿禰・紀角宿禰らは百済を許し、朝廷のもとで人質として預かっていた阿花王(あくえおう=阿莘王)を辰斯王に代わる王に即位させて後、蘇我石川宿禰・紀角宿禰らは倭国に帰国したのだそうです。
(一言:朝鮮半島に遣わされた蘇我石川宿禰・紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰はいずれも武内宿禰の子で、倭国の使者として多くの我が子を百済に派遣した当時の武内宿禰の権力の大きさを現わす伝承ですが、この父の権力の大半を後の世まで受け継いだのが蘇我氏の祖:蘇我石川宿禰だったのでしょう。)
武内宿禰関係系図(蘇我石川宿禰 - Wikipediaより)
表記は『日本書紀』を第一とし、『古事記』を併記。
ところで、『日本三代実録』元慶元年(877年)12月27日条では、平安時代前期の官人である石川朝臣木村(いしかわのあそんきむら)が天皇に対して申し上げる言葉の中で、蘇我石川宿禰は河内国石川(現・大阪府富田林市の東半と南河内郡一帯)の別業(なりどころ/べつぎょう:日本古代における皇族や貴族の別宅・別荘的なもの)に生まれ、これにより「石川」を名とし、さらに宗我(現・奈良県橿原市曽我町)の大家を賜り居としたので天皇より「宗我宿禰」の姓を賜ったそうです。
(一言:なんと!蘇我氏のルーツは大阪府富田林市の可能性が大だとは、驚きです。今日でも富田林市には石川という一級河川が流れています。そう言えば、その昔、南河内郡には近つ飛鳥と呼ばれ、小野妹子や聖徳太子のお墓があるくらいですから、有りうる話ですね。) ![]() |
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