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〜葛城氏の滅亡から始まる蘇我氏の繁栄〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
蘇我氏は、絶大な権力を持った豪族でしたが、物部氏、大伴氏などのように、神話、伝説時代から歴史の舞台に登場した氏族ではなく、随分時代が下ってから、飛鳥の大豪族として突然登場します。
蘇我満智 (そがのまち:5世紀後半の人物とされる)は、履中(りちゅう)天皇2年平群木莵(へぐりの-つく)らと国事にたずさわったとされますが、百済(くだら)(朝鮮)の貴族木満致(もく-まんち)と同一人物とする説もある。その存在自体への疑問も多いようです。
(一言:ですが蘇我満智らしき人物がいたという前提で話を進めますね。)
蘇我氏以前で天皇家(大王家)へ娘を嫁がせることで婚姻関係を持っていたのは、葛城氏、吉備氏のみでした。
この二氏のうち、後の蘇我氏の繁栄に大きく関係するのは、葛城氏です。
【葛城氏について】
5世紀の王権(天皇家)の基盤は未熟な段階にあり、大王(天皇)の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったのですが、当時から有力豪族だった葛城氏と天皇家は、婚姻関係を結ぶことで盟主の地位を確保する「大王と葛城氏の両頭政権」だったとか(直木孝次郎の説)。
ところが、416年7月の允恭地震(いんぎょうじしん:震度については不明)において、允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯(もがり)を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけが居なかったのです。
玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、玉田宿禰は事の発覚を恐れて吾襲を殺し、父である武内宿禰の墓地に隠れていました。允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ、衣の下に鎧を身に付けていることに允恭天皇は気づき、吾襲を捕らえて殺害(誅)しました。(恐らく:この話しの流れから推察すると、差し向けた吾襲が戻ってこないことを不振に思って?允恭天皇は殯(もがり)を命じていた家臣を全員よびだしたのでしょう。その面々の中で、玉田宿禰だけが衣の下に鎧をつけていたということでは・・・・。)
(一言:玉田宿禰は尾張連吾襲を殺害するために鎧までつけていたんでしょうか?そうではなく、たぶん吾襲を殺害の後、自身に迫る追手を恐れて身を守る鎧をまとったのでしょうね。
更に私のこの事件に対する感想ですが、そもそも日本書紀が蘇我入鹿の暗殺と同様に、朝廷側の正当性を担保するために記されたものだとするなら、殯(もがり)をさぼって酒を飲み、その発覚を恐れて偵察役を殺害したために天皇の命で殺害されるというこの事件も、いかにもとって付けたようなお話で、ただ単に支配者側が邪魔者を消したことを隠蔽するためのお話と思ってしまいます。)
この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻。
允恭天皇の崩御後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測され、この過程で葛城円(かつらぎのつぶら:円大臣)は血縁的に近い市辺押磐皇子らの履中系と結ぶこととなり、允恭系との対立をますます深めたようです。允恭系の安康天皇の即位によって劣勢に立たされた葛城円(円大臣)は勢力を回復すべく、次期大王として押磐皇子の擁立を画策しますが、456年8月、安康天皇(穴穂皇子:あなほのみこ)が暗殺される事件:眉輪王の変が起き、葛城円(円大臣)はその犯人である眉輪王を自宅に匿(かくま)います。
【眉輪王の変について】
記紀には、允恭天皇の皇子の嫡男であるはずの大草香皇子は、近親相姦の濡れ衣を着せられて安康天皇に誅殺された上に、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后にされます。
(一言:それどころか、近親相姦の疑い大有りなのは安康天皇だ思える記述もありました。)
その後大草香皇子と中蒂姫命の間に生まれた眉輪王は連れ子として育てられます。
ところが、456年8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する。という記述があるそうです。
大泊瀬皇子(後の雄略天皇ゆうりゃくてんのう)の軍によって宅を包囲された葛城円(円大臣)は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請いますが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って葛城円(円大臣)・眉輪王らを焼殺します(眉輪王の変)。かくして大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略天皇とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのです。
(一言:犯人をかくまったために焼き殺したというこの話もいかにも強引でこれを伝える記述に大きな作為を感じます。)
ちなみに、上記の私が疑わしいとした一連の記紀にある記述については、葛城氏 - Wikipediaでも、
「円大臣が眉輪王を匿った事情は不明としか言いようがない。安康天皇暗殺の背景に葛城氏が直接関与していた可能性も指摘されているが、生前の安康は押磐皇子に後事を託そうとしていたという記述(雄略即位前紀)からすれば、むしろ安康天皇(允恭系)と押磐皇子(履中系)・葛城氏との間には王位継承に関する妥協が成立していて、このことに強く反発した大泊瀬皇子が安康を含む敵対勢力の一掃に踏み切ったと解釈することも出来よう。眉輪王の物語が暗殺の実情を隠蔽する目的の述作であるとすると、眉輪王を匿ったために葛城氏が滅ぼされたという記紀の筋書きにも疑問が生じ、実際の滅亡原因は、大泊瀬皇子のライバルである押磐皇子と連携していたことにあった可能性が高い。」と記しています。
武内宿禰 関係図 ところで、蘇我氏考 - OCNには、そもそも、蘇我氏は応神王朝を支えていた葛城氏に代わって台頭してきた。大泊瀬皇子こと雄略天皇が外戚である葛城氏の影響を取り除き大王独裁制を敷くために葛城陣営の目弱王、葛城円大臣、市辺忍歯王を討伐し、葛城氏を滅亡させたおり、その討伐に加わったのが蘇我一族だと記しています。
(一言:蘇我氏は葛城氏滅亡に直接加担しているのですね。)
これと先にご紹介した葛城氏の滅亡のお話とを合わせて考えると、「葛城氏が南朝鮮攻略時に連れ帰った多くの捕虜は、葛城氏の滅亡後の6世紀末以降は、蘇我氏の配下に入った。」ということになりますね。
(一言:ということは、5世紀後半の人物とされる蘇我満智の頃は、漢氏らは蘇我氏の配下に入っていなかった?いや、葛城氏の滅亡後なら、少なからず関係を深めていたのでは。)
「雄略天皇代、蘇我満智は、三蔵=斎蔵(いみくら:古代,大和朝廷の祭祀に用いる神物や官物を納めた蔵。)・内蔵(うちくら:天皇家の財宝を管理する倉庫)・大蔵(朝廷の倉庫を管轄し、朝廷の銭貨・金銀・調・貢物の出納、保管や諸国・民間の度量衡や売買価格の公定した)を管理した三蔵検校という役職にあったことです。
大和朝廷がその権威をもって、地方の豪族や由緒ある神社などの宝物を調べただすことを、「神宝検校(ケンギョウ)」というそうですから、検校とは検査・管理する役職のことでしょう。
そして、三蔵検校の役職を勤めるにあたって重要な役割を果たしたのが漢氏だったと思われます。
それは先にも紹介した蘇我氏考 - OCNの記述から伺えます。
(蘇我氏の)出自は、記紀では武内宿禰を祖とするとなっているが、実ははっきりしてないらしい。
イ)それまで目立たなかった日本在来の一族が、次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって、政治の表舞台に躍り出た。 ロ)朝鮮半島から日本にやって来た渡来人が、新知識、技術を武器として、経済的な基盤を固め、権力の中枢に座を占めるようになった。 などの説がある。
河内の石川流域(大和国高市郡蘇我邑)を本拠とする在地豪族の流れの「日本人」か、又は、百済から新たに渡来した一族である、のどちらかである、とのこと。 (出自は)どうであれ、蘇我氏は、蘇我満智の頃から朝廷の財政権を握り(朝廷の蔵の管理)、渡来系の人々(新羅系の秦氏は、出納、東文氏、西文氏は、帳簿を扱わせた。
百済系の漢氏は、蔵の管理。)と、対立していた2系統の渡来人が蘇我氏のもとにまとめられた。ーーー日本書紀)に支えられて権力を得てきたらしい。
蘇我氏を調べている中で、当ページの書き出し文そのままに、「それまで記紀などにおいてほとんど触れられなかったにもかかわらず、蘇我稲目の代で突如として歴史の表舞台に登場する。」と言った意味の記述を複数のページで目にしました。しかし歴史の表舞台へと躍り出る力は、既に蘇我満智の代で貯えられつつあった・・・・いや、蘇我満智もしくはそれ以前の代から、曽我氏は既に歴史の表舞台に立っていたのかもしれません。
ただ、それを史実として記すことを、記紀の編纂者たちは拒み、殊更に隠蔽(いんぺい)しようとしただけなのかもしれません。 ![]() |
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− さん
御忠告ありがとうございます。
お友達欄にある方の数からもお分かりのように、私は基本的に一人が好きなタイプです。なのでそれが誰で、どんな人であれ、深入りすることはほぼありません。
それは良くも悪くもですが。
ともわれ、成り行きを見たいと思います。
2015/2/6(金) 午後 11:33 [ 上から目線 ]
− さん
よく考えると、不幸事を書いた記事へナイスを入れるのは良くないと思えます。
ただ、ナイスだけを投票してコメントを要求する方には御忠告がなくても、警戒心というか、好きではありません。
心からのナイスとコメントと思えた方に対しては、一匹狼の私も嬉しいものです。
出来れば儀礼的なやり取りは避けたいと思っていますので。
2015/2/7(土) 午前 0:06 [ 上から目線 ]