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〜蘇我氏の直系、韓子と百済は入鹿を逆賊に仕立てるための仇名?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
今回は蘇我氏の直系の中で最も問題視される2名についてです。
蘇我満智の子である蘇我韓子(そがの からこ、生年未詳 - 465年5月)は、蘇我韓子 - Wikipedia
に「韓子とは母が韓人である子の通称名か」とあるように、本名でないのかもしれません。
また蘇我韓子の子である蘇我高麗(そが の こま)は蘇我韓子の子。蘇我稲目の父。別名は蘇我馬背。母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説があり、業績はいっさい不明で『古事記』『日本書紀』にも登場しない。
と現在一般的には発表されています。それはそうなのでしょうが、私的には、
中大兄皇子こと天智天皇によって逆賊として殺害された蘇我入鹿(いるか)には、確かに父:蘇我蝦夷(えみし)、祖父:蘇我馬子(うまこ)、曽祖父:蘇我稲目(いなめ)という直系の先祖は実在し、更に実名ではないにしろ、高祖父:蘇我高麗(こま)、五世の祖:蘇我韓子(からこ)とおぼしき祖も確かに実在し、その実名は、高麗や韓子といった、逆賊の祖にふさわしい異端者という印象を植え付けるためののいい加減でバカバカしいい名ではない、立派な実名の祖先がいたはずです。
それを後の支配者である古事記・日本書紀の編纂者は隠蔽し、歪めて後の世に書き示したのだと思っています。
蘇我韓子の母が韓人で、蘇我高麗の母が高麗(高句麗)人だったことは、ひょっとすると事実なのかもしれません。ですがそれが罪深いということにはなりません。
殊更に出生の秘密を明かすような高麗や韓子という名を親たるものがつけるでしょうか?もしも親がつけた実名だったとしたら、それは当時の大陸の文化や技術が日本より遥かに高く、そのことを誇り思って付けた名に違いありません。
ところが、この場合は、蘇我氏を滅ぼした側が伝える名であり、悪意に満ちた仇名のようなものでしょう。
同じ仇名でも、今日のある議員を『政界の壊し屋』『いら菅』『鳩ポッポ』『言ってる事と政策が安倍こべ晋ちゃん』などと悪政に苦しむ国民が揶揄するのとは訳がちがいます。
そもそも蘇我氏とは、
1.日本在来の一族が、次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって、政治の表舞台に躍り出た。
2.朝鮮半島から日本にやって来た渡来人が、新知識、技術を武器として、経済的な基盤を固め、権力の中枢にのし上がった。などの説があり、
言い換えればその始まりは、河内の石川流域(大和国高市郡蘇我邑)を本拠とする在地豪族の流れの日本人か?はたまた、百済から新たに渡来した一族である、のどちらかであるとのこと。
どうであれ、蘇我氏は、蘇我満智の頃から朝廷の財政権を握り、対立していた新羅系(秦氏・東文氏・西文氏)と、百済系(漢氏)という2系統の渡来人が蘇我氏のもとにまとめられ、それらに支えられて権力を得てきたらしいことが日本書紀から読み取れるとか。
そして中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した後、漢氏は、蘇我蝦夷に中大兄皇子を討って子の仇をとるよう勧めているとかいないとか。
蘇我氏考 - OCNには、古代史の謎の一つである蘇我氏の出自に関する諸説も紹介しています。
1.蘇我氏は、出雲系物部氏、葛城氏、などの流れと同一出自とする説。(関 祐二氏ら)
・出雲大社に「素鵞社」がある。素戔鳴尊を祀る神社。物部、葛城、蘇我は、いずれも出雲系(古事記)平群氏もその分派。
(解説:消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史によると、出雲大社本殿真裏には、スサノオを祀る素鵞社という摂社がある。これはスサノオの最初の宮が『須賀』であったことと関連するものと思われるが、須賀の地を選んだきっかけは、すがすがしい場所だったからで、『須賀』は『須我』や『宗賀』とも書く。元々『スガ』であったものが出雲大社で『ソガ』になった。『宗賀』と書いて『ソガ』とも読み、蘇我氏の場合、『宗賀』とも称していたことは無視できない。またスサノオの子に蘇我の名を冠する神が存在したと証言する文書も確認されており、スサノオと蘇我はあらゆる場面でつながってくる。
結論を言うと、蘇我氏は大物主神(ニギハヤヒ)の子:事代主神を祖にいただく一族であり、物部氏と同族であった。この事実は日本書紀によって巧みに抹消されてしまったが、ヒントが皆無というわけではく、雄略天皇の血の粛清をめぐる一連の事件ののち、雄略天皇は蘇我系豪族・葛城氏の本拠地、葛城山の一言主神を四国に追放しているが、この神が事代主神と異名同体であった。)
2.蘇我氏は、渡来系氏族の流れとする説。(門脇禎二氏、黒岩重吾氏ら)
・百済蓋歯王の弟昆支王の子供の一人(461年来日;武寧王墓誌)。これが雄略天皇から円大臣の領地を与えられた。
馬子が推古天皇に「葛城の地は、私の本貫なので賜りたい・・・」(この記事は、日本書紀にある。)などがこれを裏付ける?(黒岩)
昆支王の娘と満智の子が韓子であるとしている説:
武光 誠著「古代史を知る事典」では、蘇我氏は、葛城氏から別れた氏族で、雄略天皇朝の頃、葛城円大臣が滅んだ後、葛城蟻の孫として蘇我馬背が出て、その子が蘇我稲目であるとしている。
いずれにせよ、記紀にはっきり記述されたのは、稲目からであり、稲目の娘が2人29欽明天皇の妃に入り、蘇我王朝と言われても言い過ぎでないような栄華を極めた。
記紀の蘇我氏に関する記事の多くは虚構である、との説も根強くある。
ここからはこのページの本題、蘇我高麗や蘇我韓子についてですが、
昨年(2014年)から都塚古墳の被葬者ではないかと言われている蘇我稲目以前の代の蘇我高麗や蘇我韓子については、殆ど不明ですが、蘇我稲目が(?−569)の人物であることから大ざっぱに推察すると、蘇我高麗は500年前後の人物で、蘇我韓子は450年前後の人物ではないかと推測します。
葛城氏の滅亡後は、大伴・物部・蘇我の三氏が当時の3代勢力となり、とりわけ大伴氏がにわかに勢力を得てきたようです。
蘇我満智に続く450年前後の人物ではないかと推測する蘇我韓子や、500年前後の人物と推測する蘇我高麗の代の大伴氏としては、5世紀後半の人物と思われる大伴室屋や5世紀から6世紀にかけての大伴金村が該当すると思われますが、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに540年には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど「日本書記」の記述にある)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。そして大伴金村がワイロを受け取ったことを吹聴したのが蘇我稲目ではないかと言われているそうです。
いずれにせよ蘇我氏は天皇家の財政を握る地位にあった、いわば経済的豪族であったため、天皇家にとって欠かせない存在として安定した権力を保持することが出来たのに対して、大伴氏や物部氏は武力をもって朝廷に仕える豪族でした。
これら三つの豪族の特徴からして、力で権力を得た大伴氏や物部氏に対して、蘇我氏は頭脳=策略をもって他のライバルを陥れる事に長けていたと想像されます。
となれば、そんな蘇我氏は必然的に他の豪族から嫌われ、恨みをかうことになります。
思うに、蘇我高麗や蘇我韓子は経済面で地味に天皇家への貢献を果たすことで安定的に権力を保持し続ける反面で、他の豪族との権力争いにおいては、陰で策略を用いて失脚させていったからこそ、日本書紀などにおいて表立った記録がなく、後に日本書紀の編纂に深くかかわった中臣鎌足こと藤原鎌足は、ことさらに蘇我氏について忌み嫌う表現を用いて記したのではないでしょうか。 武内宿禰 関係図 ![]() |
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