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〜大阪城:豊臣秀頼・淀殿・真田大助ら自刃の地は今〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おもろいなぁ、大阪編
●真田氏に関するページ●
幸村伝説は幽閉地九度山真田庵から 幸村と家康大坂冬の陣の計算と誤算
幸村の父昌幸の生き様(豊臣の時代) 幸村は手紙を偽りの休戦から夏の陣
昌幸・幸村流刑地九度山での暮らし 逆賊は汚名?長宗我部の素顔と血筋
大阪市内でも吹雪が舞った2015年2月9日に私がでかけたのは、かつて花の万国博覧会が催された鶴見緑地だけではなく、大阪城にも立ち寄りました。
9日は平日の月曜日だということもあってか、観光客の殆どが韓国人の方で、天守閣がなければ、韓国にいるような錯覚すら覚えるほどでした。
大阪城を築城した豊臣秀吉は、朝鮮征伐でかの地を攻めた張本人なのですが、その居城を観光することに彼らは抵抗はないのでしょうか?
竹島問題ではあれほど強硬な姿勢を示している人々なのに・・・?
【張本人の語源】
張本人は、「張本」と「人」からなる語。 「張」は「弓に弦を張る」など緩みなく引き締める意味の語だが、「物の表面を覆うように広がる」「張り巡らす」といった意味から、「催す」「設ける」の意味にもなった。
ところで、当ブログにおいては、〜魚眼で大阪城を見る:目線は上から①(2013年〜5月26日)〜から〜魚眼で大阪城を見る:目線は上から④(2013年5月26日)〜においてはじめ大阪城を撮影した画像をご紹介し、その後〜大阪城めぐり:青屋門から極楽橋を渡る(2013年7月21日)〜から〜大阪城めぐり: 桜門枡形の巨石と天杼樟之記の碑 (2013年7月21日)〜でもご紹介しましたし、更に、このページの上部に列記した『真田氏に関するページ』の内の大坂冬の陣・夏の陣の決戦の場として登場しました。
ですがそれらのページの中で取材漏れしていたいくつかの場所を、今回は改めて取材しました。
ところで、真田雪村(信繁)を主人公とする次回のNHK大河ドラマ『真田丸』が、いよいよ来年(20016年1月)から放映されます。
恐らくこれに先駆けてなのでしょう、現在大阪城のあちこで補修・改修の工事がおこなわれており、残念ながら現時点では撮影に不向きな状況が多数みうけられました。
来年の大河ドラマ放映による来訪者のためのお化粧直しですので、文句はいえませんが・・・・。
そんな中、今回ご紹介するのは、『秀頼・淀殿ら自刃の地』です。
〜大坂夏の陣:天王寺口の戦い(幸村ついに死す)〜でご紹介したように、豊臣家存亡をかけた徳川との最後の決戦:大坂夏の陣において、
1615年5月7日、最後まで徳川家康を追い詰め、孤軍奮闘した真田雪村(信繁)は、茶臼山:現在の安居神社において討ち死にします。
〜大坂夏の陣:岡山口の戦いから大坂城炎上の後まで〜の中でも記したように、大坂城は1615年5月7日に、炎上します。
翌5月8日
糒庫で長い夜を過ごした淀殿・秀頼母子や近臣らは千姫に託した助命嘆願を希望に潜んでいましたが、正午頃に片桐且元の案内を受けた井伊直孝・安藤重信隊が、糒庫を目がけて一斉射撃を行ったところ、間もなく糒庫から火の手があがります。
この銃声によって一縷の望みを断たれたことを悟った秀頼と淀殿は自害し、大野治長・毛利勝永・真田大助ら近臣ら約30名が火薬に火をかけて殉じたのです。
秀頼、享年23歳。淀殿、享年46歳。大野治長、享年47歳。真田大助、享年13歳or16歳。毛利勝永、享年38歳でした。 現在『秀頼・淀殿ら自刃の地』として石碑が設置された場所の周辺も重機が入り、工事がおこなわれています。
真田雪村の嫡男:真田大助もこの地で殉死した場所ですから、当然来年の大河ドラマにおいては最も重要なホットスポットの一つとなることは言うまでもありませんね。
『
秀頼・淀殿ら自刃の地
』の石碑を示す石標
『
秀頼・淀殿ら自刃の地
』の石碑
『
秀頼・淀殿ら自刃の地
』の説明板
秀頼・淀殿ら自刃の地
』大坂夏の陣において、この出口を使って豊臣秀頼や真田大輔らは
火の手の上がった大阪城天守閣から山里丸にある矢倉に逃れたのでしょうか?
ですが大阪城が現在のような構えになったのは、徳川時代です。
なので、城の構造もかなり変わっているのでしょうね。
この日、大阪城にて撮影した他の画像は、いずれまたご紹介する日もあるはずです。
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