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〜葛城氏→平群氏→大伴氏→物部氏、そして蘇我稲目の台頭(前編)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
日本神話によって神代の時代から語られる天皇家の歴史は、実話と逸話が入り混じり、虚々実々の古代ロマンとして、私たちの興味を限りなく引き付けます。
その中からやがて邪馬台国を含む複数の有力豪族が、それらの緩やかな集合体となると、天皇家は連合した国々の各王を束ねる長、つまり大王となります。
しかしこの時点では決して絶対的な存在ではなく、他の王にとって代わられる不安点な存在でした。
そんな中、天皇家が覇権を握る上で最初に大きく係わったのが葛城氏でした。
これによりやがては中央集権化を進め、安定的な政権を得た天皇家:つまり大和朝廷は、更なる安定化を図るべく編纂された古事記・日本書紀において天皇家以外の各有力国は、明確な序列をもって豪族と称されます。
今回はそんな蘇我稲目が台頭するまでに天皇家に係わった主な豪族の盛衰を簡単にご紹介したいと思います。
有力豪族と天皇家
の関係図
1.葛城氏の台頭と衰退
日本史ー古墳時代その5、6世紀のヤマト政権や天皇と豪族の関係とは? 大伴氏の勢力、物部氏と蘇我氏の争い ...などの記述をもとに各豪族の個別的な盛衰だけでなく、天皇家を含めた全体的な時代の流れの中でご紹介すると、まず、最初に豪族として台頭するのは葛城氏です。 葛城氏は、 自らの娘を第16代仁徳天皇のもとへと嫁がせ、その3人の子どもを次々に天皇にして勢いを奮いました。
これが第17代履中・第18代反正・第19代允恭(いんぎょう)の三天皇です。
倭の五王が誰であるかに関しては諸説あり、『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→第17代履中天皇、「珍」→第18代反正天皇、「済」→第19代允恭天皇、「興」→第20代安康天皇、「武」→第21代雄略天皇等の説があります。このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあり、未確定。)
その倭の五王の最後を飾る武は、おそらく第21代雄略天皇と思われ、蘇我稲目が歴史の表舞台に登場するまでの対抗勢力の一つである葛城氏の盛衰については、〜葛城氏の滅亡から始まる蘇我氏の繁栄〜でも既にご紹介したが、葛城氏の衰退は葛城円(円大臣)が雄略天皇の命によって殺害されたことによります。
(一言:天皇をしのぐ勢力を許さない粛清の歴史が、少なくともここから始まったのですね。)
2.平群氏の台頭と衰退
葛城氏没落後の第21代雄略天皇の時代以降、木菟の子の葛城真鳥(まとり)が「大臣」を歴任し、一族の興隆を極めます。しかし、第24代仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。
ところがその後、雄略天皇の死後何代か後、506年に第25代武烈天皇がなくなると皇室にはこれまで続いた内輪争いのために後継がなくなります。つまり天皇家直系の血筋が途絶えてしまったのです。
(一言:神の子である天皇が、第26代雄略天皇の行いにより、神の長によって祟られたのでしょうか?)
3.大伴氏の台頭と衰退
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに由来します。また、祖先伝承によると軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられています。
その結果、大伴金村が五代も前に皇室から別れ、そのころ越前国(福井県)に住んでいたのかを探し出したのです。
その結果、大連の大伴金村(おおとものかなむら)という人の努力で遥かに遠い皇室の親戚を探し出します。その名は男大迹王(おおどのおう)。
五代も前に皇室から別れ、そのころ越前国(福井県)に住んでいました。
その真偽の詳細は分からないのですが、男大迹王は越前の豪族で、近畿地方からは遠く離れた存在だったのですが、先祖が応神(おうじん)天皇であると称して朝廷にとり入り、抜擢されます。
ところが、実際は天皇とは関係のない豪族で、力で天皇の位を奪い取ったという説を唱える人もあるようです。 (注釈:天皇という名称は正しくはずっと後の呼び方だそうです。)
倭の五王が誰であるかに関しては諸説あり、『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説があります。このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあり、未確定。)
継体天皇は大阪府枚方市の方にある河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位しますが、なかなか大和に入れませんでした。これは異なる土地の王であったため、もしくはしいて大和に拘(かかわ)ろうとしなかったためかもしれません。
しかし、526年、ようやく大和に宮を置くことになります。
ところが翌年、新羅遠征軍を派遣しようとすると、北部九州の豪族たちをまとめた筑紫国の国造である磐井(いわい)氏が反乱を起こし出兵を阻(はば)みます(527年、磐井の乱)。
親新羅派の磐井氏らが新羅側について、新羅の最前線防衛ラインを築いた争いとなったらしいのですが、結果的には大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい・もののべのあらかび)が翌年になって鎮圧に成功します。
次回につづく。
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