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〜葛城氏→平群氏→大伴氏→物部氏、そして蘇我稲目の台頭(後編)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
継体天皇の即位により、近江や越前など北方との結びつきが強化されたと考えられますが、古事記ではまさに磐井(いわい)の乱の勃発した527年に継体天皇は亡くなっています。
この継体天皇の崩御の年について日本書紀では531年と若干のズレがあり、「天皇・太子・皇子が共に亡くなった」という説が記されているそうです。
(一言:つまり継体天皇の代で天皇家の血筋が再び途絶えたということ?)
ともわれ、ここまでの天皇家には信ぴょう性が疑われる点が多いとされていますが、これ以後についての日本書紀の記述は、概ね史実と符合していると考えられるそうです。
(一言:継体天皇までの天皇家の系譜が疑わしいということは、蘇我高麗までの蘇我氏の系譜はもっと疑わしいということなのでしょう。)
継体天皇の後、わずか4年、3年の政治だった安閑天皇(あんかん)、宣化天皇(せんか)の後に、欽明天皇(きんめいてんのう)(509-在位539-571)が登場しますが、一説にはこの時期は2つの朝廷が並び立つ「二朝並立(にちょうへいりつ)」の時代たったと考えられ、
これによると以前からの有力豪族である大伴金村が安閑、宣化天皇の後ろに付き、これに対して、葛城(かずらき)氏から分立して完全独立を果たした蘇我稲目(そがのいなめ)(?-570)が、第29代欽明天皇を押し立てて、二人の天皇が並び立っていたと思われます(「辛亥の変」(しんがいのへん)説)。
(一言:もしも天皇・太子・皇子が共に亡くなったことが真実ならば、この政局の不安定状況(二朝並立(にちょうへいりつ)」の時代)となったこともうなずけますよね。) これが第26代継体天皇で六世紀の初め頃のことです。
(と言うか:上記のようにこの頃の治世が二朝並立の時代であったとするならば、継体・安閑・宣化の皇位継承の間に一方では欽明天皇一代だったことになるのでしょう。二朝並立の時代だった上に、天皇・太子・皇子が次々と亡くなったのならば、継体天皇の後、安閑天皇(あんかん)、宣化天皇(せんか)がわずか4年、3年の政治だったことが違和感なく理解できますが、真相はいかに?)
ところがこの勢いもまもなく衰えてしまいます。
4〜5世紀半ばの朝鮮半島南部の地図
任那の人々は大伴氏の勝手なやり方に腹を立てました。
そればかりか朝廷の中でも物部氏などが任那をわけてやったのは大伴金村が百済から賄賂をもらったからだと大伴氏の罪を声高に追及し、金村は失脚し、金村はたまらなくなって、ついに摂津国住吉郡難波(現在の大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引っ込んでしまいました。
こうして大伴氏の勢いもわずかな間に衰え、武力を持って朝廷に仕えていた大伴氏の失脚は、同じ武力によって使える物部氏の台頭に必然的につながり、勢いを増してきます。
4.蘇我稲目の台頭
一方この頃、わが国では大陸や朝鮮半島との交通が益々盛んになり、朝廷の財政も次第に大規模になってゆきます。
そのためこれを扱うのは読み書きや計算がよくできる人でなければならず、こういうことにはなれた帰化人が大勢用いられるようになります。 そしてその帰化人を率いて朝廷の倉庫の取り締まりをしたのが蘇我氏です。
蘇我氏は膨れ上がる朝廷の財政を握り次第に実力を蓄えていきます。 蘇我稲目は、財政面から数々の天皇を補佐し続け、蘇我氏は彼の時に一躍歴史の表舞台に踊り出ます。
対してライバルとなる葛城氏・平群氏・有力豪族は武力をもって朝廷に仕えたのですが、蘇我氏に対抗する勢力は上記したように、なぜか何がしかの罪を問われ、衰退してゆきます。
いずれにせよ539年、ヤマト政権は欽明天皇によって統一継承されますが、翌年の540年には大伴金村が朝鮮半島政策で物部尾輿(もののべのおこし)に失脚させられ、代わって物部氏が台頭。6世紀後半には物部氏と蘇我氏が対立を深めてゆくのです。 以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。 ![]() |
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