|
武を持って朝廷に仕えていた葛城氏・平群氏・大伴氏・物部氏らの活躍は、武功を上げることであり、その存在そのものが表立った存在です。対して蘇我氏は、財務面から朝廷を支える役割であり、本来内面的な存在で、あくまでも朝廷を主として使える以上、歴史の表舞台に躍り出ることがないのは至極当然です。
蘇我稲目以前の直系の蘇我一族がすでに他の豪族を凌駕(りょうが)する潜在的な力を得ていたにもかかわらず、歴史に残る動きを見せなかったのなら、それはつまり、実直に朝廷の一翼を担っていた証拠でもあります。
そんな蘇我氏が稲目の代で歴史の表舞台に登場したということは、稲目が大いなる野心をもって生きたからこそ、なのかもしれません。
だとすれば、稲目が野心をもって行った行動の一つが仏教の布教なのでしょう。
●仏教伝来を巡る物部氏と蘇我氏の対立
継体天皇の息子である欽明天皇(509-在位539-571)の時代、一説では彼が即位した後、552年(日本書紀による説)に百済から仏像と経文が伝わったともされ、更に有力な説では、彼の即位直前の538年に初めての仏教公式伝来があったと考えられています。
ただしそれ以前にも渡来人が私的に仏教を信奉するようなことは行われていた可能性は少なくありませんが、この公式伝来によって、国家的宗教として受け入れる動きが起こります。
そしてこのことが、物部氏と蘇我氏の対立を明確にして行くのです。
それはつまり、蘇我氏は仏教を推進し、物部氏は廃仏(はいぶつ)を目差す宗教闘争でした。
(一言:それ以前、わが国は神道の国でだったのですから、物部氏のスタンスは多数派かつ保守的で、蘇我氏は進歩的と言えるでしょう。そして、進歩派はいつの世も少数派です。渡来人の技術集団を束ねていた蘇我氏が進歩的であることは、至極当然なのかもしれません。)
日本書紀ではこの時の経緯を次のように記しているそうです。
欽明天皇が「百済より送られた仏を信奉すべきであるか」と問えば、物部尾輿、中臣鎌子らが「国つ神(伝統的な神)を蔑ろにしてよいものか」と反対したのに対して、蘇我稲目が「西方の国々皆仏を敬う。日本もそうすべきである」と答えたらしい。
当然のように多くの保守的豪族は、「ならば仏の力の証を見せよ。」的な反応を見せ、稲目は向原(むくはら)にあった家を仏寺(向原寺、後の豊浦寺)として、御仏を一心不乱に拝みますが、意に反して疫病が大流行します。
たちまち蘇我が仏を拝んだ神罰が下されたのだとされ、稲目の寺は仏像諸共に火に包まれます。
(一言:何者かによる放火なのでしょうね。)仏を信仰していない保守派にとっては焼け焦げたただの木像ですからね。
それでも仏像だけは燃え尽きなかったのですが、保守派の一人がこれを難波の堀江に投げ捨ててしまったといいます。
(一言:仏を信仰していない保守派にとっては焼け焦げたただの木像ですからね。)
ここで難波の堀江というのは、当時大阪湾の内側にあった河内湖(草香江・くさがえ)から海に向けて造られた堀江と思いがちですがさにあらず、向原寺跡にある池がそれにあたるとの記述があるそうです。
こうして有力者たちへの仏教の浸透は一旦挫折するのですが、次の蘇我馬子の時代に大きく前進を見せることになるのです。
新羅への進出(562年)
蘇我氏にとっての不利な状況は更に続きます。562年、大和政権の朝鮮政策の要であった加羅(加羅は現代韓国においては伽耶:かやと表記する)が新羅に亡ぼされてしまったのです。
この時期の加羅(=伽耶)は諸国が同盟を結ぶ諸国連合体として新羅などに対抗していたののですが、この年、盟主である加羅(大伽耶国)が新羅に降伏して、事実上新羅の下に付くことになったのです。
衝撃を受けた欽明天皇はただちに軍隊を差し向けますが、白旗を掲げる敵に騙(だま)され、油断したところを攻め立てられ、大敗したのです。
現代の感覚で言えば敵の戦法は卑怯ですが、当時はこれを卑怯とはされなかったようです。
この年は新羅だけでなく高句麗にも出兵しますが、結局どちらの戦いでも戦果を挙げることは出来なかったのです。
しかし、こうした蘇我稲目にとって不利な一連の状況もその後の失脚にはつながらなかったのです。
有力豪族と天皇家
の関係図
稲目は自身の娘を欽明天皇の皇后とし、既に蘇我体制への礎(いしずえ)を築いていたのです。
「大臣(おおおみ)」という「臣(おみ)」の代表者としての称号は、彼によって生み出されたもので、欽明天皇の墓とされる奈良県見瀬丸山古墳(みせまるやま)古墳は、蘇我氏一族の土地でもあり、蘇我氏の権勢がどれ程のものであったかを伺い知ることができます。
当時の政治体制は、大和政権直轄の水田である屯倉(みやけ)の整備や、部民(べのたみ)の制度が整えられ、また中央政治においても有力豪族たちの代表による合議制で政治を行う体制が整っていったようです。合議制の代表はもちろん蘇我稲目。
また大和政権の財源を管理する大蔵(おおくら)、大王の財産を管理する内蔵(うちくら)、祭儀用財産の管理を行う斎蔵(いみくら)を合わせた三蔵(みつのくら)を管理するために、蔵司(くらのつかさ)が設置されるなど国家組織の進展も見られました。
当時財政などの職務は渡来人などによって行われていたのですが、蘇我稲目は、渡来系氏族の掌握によって三蔵(みつのくら)の管理権を掌握していたのです。
これ程の権勢を誇っていた稲目はスゴイの一言ですが、逆に言えば、そんな稲目に対して真っ向から対抗した物部尾輿もまたスゴイ存在と言えます。
稲目は朝廷を、対抗する物部尾輿は大多数を占める保守派の豪族をそれぞれバックボーンとして争い、仏を巡る物部氏と蘇我氏の抗争も、実際は政権抗争そのものだったのかもしれません。
そしてこの争いは、蘇我稲目と物部尾輿の子供達である蘇我馬子(そがのうまこ)(?-626)と物部守屋(もののべのもりや)(?-587)の対立として受け継がれます。
![]() |
全体表示
[ リスト ]





