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〜蘇我馬子は悪なのか?(物部守屋との対立)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
蘇我馬子(そが の うまこ)は、邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。
第30代敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、第31代用明天皇(在位はたったの2年:585年10月3日? - 587年5月21日?)、第32代崇峻天皇(在位はたったの5年:587年9月9日? - 592年12月12日?)、第33.代推古天皇(在位35年:593年1月15日 - 628年4月15日)の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いたとされます。
さて上記の記述の中で問題は、用明天皇はたった2年、崇峻天皇の在位はたった5年と、なぜそのような短い在位に終わったのかということです。 蘇我馬子の父蘇我稲目は、蘇我氏の権勢を不動のものとするために、嫡子である蘇我馬子の妹になる二人の娘(蘇我小姉君と蘇我樫塩姫)を第29代欽明天皇の妃とします。
欽明天皇が崩御したことを受け、即位したのは第28代宣化天皇の娘である石姫皇女と欽明天皇の間に生まれた敏達天皇で、母は出雲の豪族の血筋とも言われる息長真手王の娘である広姫で、飛鳥の豪族の血を引く天皇ではありませんでした。
第30代敏達天皇は廃仏派寄りであったために、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の8月15日(585年9月14日?)病が重くなり崩御(なお、古事記では没年は584年とされている)。仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された。
それまで廃仏派寄りであった敏達天皇のもとで優勢に立っていた物部守屋と中臣氏の立場は一気に逆転し、蘇我稲目・馬子に権勢が移ります。
敏達天皇 - Wikipediaによると、
敏達天皇は、息長真手王の女、広姫を皇后としたが、同年11月に崩御。翌同5年3月10日(576年4月23日?)、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女(=炊屋姫後の推古天皇)を改めて皇后に立てた。尚、欽明天皇32年(571年?)に額田部皇女(後の推古天皇)を既に妃としており、何故皇女であるにもかかわらずそうでない広姫が当初皇后となったのかは不明としています。
(一言:私が思うに、敏達天皇が当初皇女(天皇家の血筋)ではない広姫を皇后としたのは、額田部皇女は皇女であると同時に蘇我稲目の孫であることから、これを嫌った敏達天皇と同じ廃仏派でその当時蘇我氏以上に勢力を誇っていた物部守屋と中臣氏が、広姫を皇后にと押したのだと思うのです。) 敏達天皇崩御を受け即位した用明天皇の母は、蘇我稲目の娘であるで、蘇我氏の血を引く天皇でした。
敏達天皇の死因については不明ですが、廃仏派寄りであったために、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづいたことから、蘇我馬子が暗殺したのではなかとする説もあるようです。
崇峻天皇陵によると、
592年冬10月4日、イノシシを献上する者があった。天皇はそのイノシシを指さして、「いつの日かこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と漏らされたそうです。
そしてそれから6日後、蘇我馬子がこれをもれ聞き、天皇が自分を嫌っていると警戒し、さらに一族のものに天皇を弑殺(しいぎゃく・しぎゃく:身分の下の者が上の者を殺す。)することをくわだてます。
(一言:このことが事実だとしたら、崇峻天皇が憎いと思っている者とは、はたして本当に馬子のことだったのでしょうか?ただ単に、敵を討つ力が欲しいと願っただけだったのでは?)
そして11月3日、東国の調(当時の税:租庸調の調のことかな?)を進めると偽って天皇を儀式の庭に臨席させ、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って天皇を弑殺(しいぎゃく・しぎゃく)させてしまいました。
(一言:崇峻天皇が憎いと思っている者とは、はたして本当に馬子のことだったのでしょうか?ただ単に、敵を討つ力が欲しいと願っただけだったのでは?)
『日本書紀』は、その日のうちに天皇の遺骸を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬ったと伝え、延喜諸陵式には、陵地・陵戸なしと記しているそうです。崩御したその日に葬ったこと、陵地・陵戸がないことは前後に例がない。なお、現在の陵とは細い路地を隔てた場所に、金福寺という寺がある。その寺が生前に天皇が起居した倉梯柴垣宮の跡であるという。
(一言:つまり、本来あるべき陵地・陵戸が、逆賊:蘇我馬子によって殺害された上に即日地中に埋めてしまったために、生前に暮らし、その骸が埋められた宮跡を便宜上の陵墓としているらしいです。)
事の発端はこうである。その年の4月9日、聖徳太子の父である用明天皇が磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)で崩御された。当然のことながら皇位継承者選びが政界を揺るがします。
幸い天皇の寵臣だった三輪君逆(みわのきみさかう)の働きで事なきを得たのですが、今度はその寵臣を穴穂部皇子は逆恨みし、射殺してしまった。
このような経緯から、炊屋姫炊屋姫(=額田部皇女後の推古天皇)は穴穂部皇子の排除を命じ、蘇我馬子らは炊屋姫炊屋姫(=額田部皇女後の推古天皇)を奉じて、穴穂部皇子を討ちます。それを知った物部守屋は、身の危険を感じた渋河(現在の八尾市)の別宅に引きこもり防備を固めた。
(一言:守屋が悪だったかどうかは分かりませんが、少なくとも、このお話の経緯を見るかぎり、守屋が推した穴穂部皇子は悪者と断じざるおえませんね。)
しかし、蘇我馬子はこの時を政敵を葬り去る絶好の機会と捕らえ、諸皇子と群臣たちに守屋討伐を呼びかけました。馬子の呼びかけに、ほとんどの皇子や群臣が呼応し、一行は軍勢を率いて守屋を渋河の別宅に襲い、物部本宗家を滅ぼしたのです。『日本書紀』は587年秋7月のこととして、この時の物部側の壮絶な戦いの様を記録している。
(ちなみに:蘇我氏と物部氏との抗争の際、最初苦戦していた蘇我氏の軍の中で厩戸皇子(聖徳太子)は、「仏神の加護なしに局面は打開できない」と心に決め、共に従軍していた秦河勝に命じヌルデ(木)をとり、自ら四天王を彫って頭頂にくくりつけ、「敵に勝つことができたら、四天王の為に寺を建立します」と誓願して戦いに臨みます。これを機に蘇我氏の士気が上がり、「とみのいちい」が守屋を弓で貫き、蘇我軍を勝利に導たそうです。)蘇我氏と物部氏より
今にして思えば、朝敵として討たれてしまった守屋の失敗は、穴穂部皇子を推したことでした。
ではなぜ守屋は穴穂部皇子を推したのでしょう?
さらに蘇我氏は同族の血を引く皇子たちの皇位継承が政権維持の基本であると見なしていました。
(ちなみに:竹田皇子は、蘇我氏と物部氏による皇位継承を巡る争いにおいて、蘇我馬子と物部守屋との合戦の際には泊瀬部皇子(崇峻天皇)、厩戸皇子(聖徳太子)、難波皇子、春日皇子と共に馬子側について従軍した。この合戦後に泊瀬部皇子は即位するが、竹田皇子は史料から登場しなくなる。恐らくこの前後に薨去したものと思われる。)
こうしたことから最終的には蘇我の血を引くことと、年長者であることが理由で、泊瀬部皇子が皇位に就き、崇峻天皇となったのです。
第32代崇峻天皇は、即位した月に宮を倉梯(くらはし)に造った。倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや)という。倉橋の集落は、現在の桜井市から談山神社にむかう山間の奥まった土地である。御破裂山(607.7m)と音羽山(851.7m)の山裾が左右から次第に迫ってきて、その先はもう平地がないと思われるほど奥まったところにある。本人の住まいをそのまま宮処と定めたためのか、それとも馬子らによって山間の地に押し込まれたのか?その理由は分からない。いずれにしても、自分が中継ぎの天皇であり、馬子たちの傀儡であることは、天皇自身も自覚していたのかもしれません。
天皇の業績として唯一記録されている出来事といえば、治世4年目に任那(みまな)再建を群臣に謀り、二万の軍勢を筑紫に出兵させたことぐらいなのは、だからこそなのでしょうか?
(一言:蘇我馬子と物部守屋との対立は、蘇我稲目が自身の娘たちを天皇家へと嫁がせ、蘇我の血を後の天皇家にまで注ぎ込み、唯一蘇我の血を受け継いでいなかった広姫と敏達天皇との間に生まれた押坂彦人大兄皇子が不肖(ふしょう)の皇子であった時点で、既に雌雄は決していたのです。)
かくして、蘇我氏の権勢は揺ぎ無いものとなったのです。少なくとも中臣鎌足(藤原鎌足)が現われ、蘇我の血を引く皇族の中からも、皇極天皇・舒明天皇・中大兄皇子(天智天皇)が現われるまでは。
『記紀』によると押坂彦人大兄皇子の母:広姫の父:息長氏は、第15代応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とする血筋とされているそうです。にもかかわらず、息長氏が当時の政界では有力な氏族ではなかったという理由で、押坂彦人大兄皇子は用明天皇の後継者として認められませんでした。
押坂彦人大兄皇子 - Wikipediaによれば、「蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か?)を営んでいた。用明天皇の王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。
とすれば、押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏によって暗殺されたのではないにしろ、蘇我系王族によって迫害されていた可能性も考えられます。
ひょっとして中大兄皇子(天智天皇)は、蘇我の血筋によって迫害された祖父である押坂彦人大兄皇子の恥辱にまみれた怨念を父である舒明天皇より引継ぎ、その仇返しとして蘇我馬子の子孫である蘇我入鹿を朝敵として討ったのかもしれません。
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