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〜蘇我馬子はなぜ仏教を崇拝した?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
皆さんは以前ご紹介した〜仏教をめぐる蘇我と物部の対立。稲目から馬子へと〜での蘇我氏が仏教を崇拝した理由をどのように理解したでしょうか?
ひょっとしてよく分からないまま、ただ単に仏教を巡って蘇我氏と物部氏が対立した事だけを記憶にのこしただけだったのではないでしょうか?
今回はその辺をハッキリさせておきたいと思います。
そもそも蘇我稲目は、大臣として、大連の物部尾輿と共に天皇家を支えていました。
そして物部氏との対立に用いられた蘇我氏による崇仏は、日本における仏教信奉の最も古い記述として『日本書紀』欽明天皇13年条にある記述に見ることができます。
その記述の中で、仏陀を蕃神(ばんしん)と記し、(となりのくにのかみ)もしくは(あたしくにのかみ)と読ませ、新しいものに対する好奇心と政局の展望から、蘇我氏は他に先駆けて仏教を受容します。そうすることで、多くの渡来・技術集団を味方につけることに成功したのです。
したがって稲目にとっての仏教信奉は、あくまでも形の上でのことでした。
つまり、日本に仏教が持ち込まれた当時、仏陀は神道の国に沿うかたちで取り入れようと、仏としてではなく、客神(まろうどがみ),今来神(いまきのかみ)として持ち込まれたというのです。
こうした『日本書紀』の記述を信じるなら、蘇我稲目と蘇我馬子が崇仏、つまり仏教を崇拝した理由は、政権を得るための道具にすぎなかったということになります。
そしてこの崇仏に対立して廃仏を唱えた物部尾輿(もののべのおこし)もまた、そうすることが政権を得るための手段に過ぎなかったのです。
折りしも、疫病が降ってわいたように流行し、多くの死者が出で、疫病の流行は、新たにやってきた仏に対する日本の神々の怒りによるものなのか、それとも排仏に対する仏の祟(たた)りによるものなのか、といった論争へと発展して行きます。
以前〜仏教をめぐる蘇我と物部の対立。稲目から馬子へと〜でご紹介したように、そうした論争の最中、五七◯年に蘇我稲目が死ぬと、機会をうかがっていた物部氏らは蘇我氏を襲って仏殿を焼き、安置されていた仏像を難波の堀江に流してしまいますが、これは現在の感覚で言えば罰当たりな行動なのですが、稲目がわから言えば、厄病神を難波に流すことによって穢(けが)れをはらい清めようとしたわけです。
更に五八三年にも再び疫病が流行し、稲目の跡を継いだ蘇我馬子が占わせると、難波に捨てられた仏の祟りで、仏が祀(まつ)りを要求しているとのお告げを受けます。馬子は、鹿深臣が百済から持ち帰った弥勒(みろく)の石像をまつり、彼の要請に応じて三人の娘が出家し、仏塔も建立されました。これに対して排仏派は、災厄の根を断つべく強硬手段に打ってでます。仏塔は倒され、仏像はまたしても難波の堀江に投じられ、三人の尼は法衣を奪われて監禁されたのですが、疫病は終息しませんでした。
(一言:ようするに疫病の流行は、仏や神の祟りやご利益によって左右されるものではなかったわけで、神や仏を政争の具とすること自体、罰があっても文句の言えないことなのですから。)
その後、敏達天皇と蘇我馬子らは相次いで疫病にかかり、馬子は仏法帰依の許可を天皇に求めます。病を得た天皇は仕方なく譲歩して三人の尼を馬子に返し、馬子のみに仏像を崇めることを許します。
するとどうでしょう、馬子は快癒したにもかかわらず、天皇は治るどころか崩御するという事態が生じたのです。
そして、同じ病を得ながらも二人の生死を分けた理由について、当時の人々のは、馬子が快癒したのは彼が帰依する仏の力によるものであり、物部氏らの主張に乗った天皇の死は、排仏・破仏によるものと噂します。
このように、蘇我馬子が仏教をわが国に取り入れた理由は、篤く仏教に帰依した信仰心からとされることが極めて疑わしのです。
具体的に言えば、つまり仏教の教えの根本理念である悩める者に対する救いの思想が全く唱えられておらず、むしろ祟りや災いといったマイナスの出来事が起こる理由として崇仏の念の欠如を唱えており、呪術的・現世肯定的な極めて偏った捕らえ方をしているのです。
有り体に言えば、稲目と馬子が仏教を信じた理由は信仰心ではなく、政権への執着心からで、権力を得るために都合が良かったに過ぎないということなのです。
ところで、asukajiなどには、上記した理解とは逆、つまり馬子がいかに仏教への信仰心をもって帰依していったかについての『日本書紀』の記述などを紹介していますので、一方的な解釈に皆さんが囚われないよう公正を期すためにご紹介しておきます。
■蘇我馬子の崇仏
石川池(剣池)のあたりは、橿原市の石川町である。敏達天皇(在位572−586)の時代、大臣・蘇我馬子の邸宅の一つはこの石川池を見下ろす高台に建っていたと思われる。 『日本書紀』は敏達天皇13年(584)の事として、以下のような記事を載せている。
その年の9月、鹿深臣(かふかのおみ)は弥勒の石像一体を携えて百済から帰国した。佐伯臣(さえきのおみ)も同様に仏像一体を百済から持ち帰った。 蘇我馬子は二体の仏像を貰い受けたが、仏をまつる僧尼がいなかったので、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐり・しめたちと) と池辺直氷田(いけべのあたいひた)を各地に遣わして修行者を求めさせた。
ようやく高句麗からの渡来人で還俗僧の恵便(えべん)という者を播磨国で見つけだしてきたので、 馬子は恵便を師とした。さらに、司馬達等ら渡来人三人の娘を得度させ、司馬達等と池達直氷田に衣食の面倒をみさせた。
こうして僧尼を得た馬子は邸宅(槻曲(つきくま)にあったと想定されている)の東に仏殿を営み、弥勒の石像を安置し、三人の尼を迎えて法会を行った。この時、斎食(いもい、仏に供える食を盛った椀のこと)の上に仏舎利が現れた。
馬子 は試しに鉄槌で舎利を砕こうとしたが砕けず、また水に投げ込んだら心の願いのまま水に浮いたり沈んだりした。そこで、馬子たちはいっそう仏法の信じた。また、このころ 馬子は石川の邸にも仏殿を造った、とある。
『日本書紀』の記載によれば、蘇我馬子は槻曲と石川の両方に邸宅を持ち、槻曲の家の仏殿には鹿深臣が百済から持ち帰った 弥勒の石像を安置し、石川の家の仏殿には佐伯臣が持ち帰った仏像(石仏かどうかはわからない)を安置して祀ったものと思われる。
槻曲の家の所在は不明で、いろいろな説がある。橿原市西池尻町軽古に現在鎮座する軽樹村坐神社あたりにあったとする稲目の「軽の曲殿」を受け継いだとする説や、「築坂」、 「桃花鳥(つき)坂」と呼ばれていた橿原市鳥屋の付近とする説などである。
いずれにしても「槻曲家」の所在は、軽から見瀬にかけての地域に求めることができよう。 一方、石川の家は、現在の石川池のほとりから畝傍東小学校のある丘陵の西にかえての一帯にあったと推定されている。このあたりは、昔から石川精舎跡といわれている。
■仏法の初まりは石川精舎からおこった
畝傍東小学校前の畑のなかに、「法明寺」と呼ばれる寺がある。橿原市街と見下ろす小高い丘陵の西斜面に位置し、時の権力者の 蘇我馬子が邸宅を構えそうな場所柄である。その法明寺の正面の柱に小さな説明板が打ち付けてあり、そこには次のように書かれている。"石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇十三年、蘇我馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。仏法の初まり は茲より作れりという。" しかしながら、蘇我馬子が建立した石川精舎の堂塔は未だ不明のままで、そのほとんどがこの地域の地下に眠っているという。
572年の敏達天皇の即位時に大臣となる。
584年、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が石像一体、佐伯連(さえきのむらじ)が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
585年、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。 3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。
同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。
橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。
587年、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。
588年、馬子は善信尼らを百済へ留学させた。
政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。592年、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
596年、馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
612年、堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。
622年、聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。
623年、新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。
624年、馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。
626年、馬子は死去した。
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