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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜聖徳太子に阻止(そし)された物部守屋の戦い
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  

ここまで述べて来た蘇我氏物部氏の対立の経過は本当にややこしいですね。
理解いただけるよう今回は、蘇我氏ではなく物部氏を主体にしてご紹介しましょう。
1.疫病流行を阻止するために馬子敏達天皇仏法の許可を求める。
物部尾興蘇我稲目の仏教を巡る対立は、そのまま次世代の物部守屋蘇我馬子の対立へと移行し、大臣・蘇我馬子疫病の流行を理由に排仏派の敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求め、敏達天皇は求めに応じてを許可します。
2.仏法許可後も疫病流行は続き、敏達天皇の許しを得て守屋は自ら仏を破壊
仏法が許可されて後も疫病の流行は続き、今度は大連・物部守屋中臣勝海が、「蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きた。」とその禁止を求め、天皇は求めに応じて仏法を止めるよう詔します。
天皇の同意を得るや、守屋は自ら寺におもむいて仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子司馬達等ら仏法信者を面と向かってののしった上で、司馬達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ちました。
3.廃仏して直も疫病の流行は激しさを増し、再び仏法を許可するが、敏達天皇は病死。
ところが、こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病の流行はおさまるどころか更に激しくなり、天皇も病に伏します。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上します。
敏達天皇馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営みますがその効果もなく、ほどなくして敏達天皇は崩御します。その反面、馬子の病は治ってしまいます。
同じ病を得ながらも二人の生死を分けた理由について、当時の人々のは、馬子が快癒したのは彼が帰依する仏の力によるものであり、物部氏らの主張に乗った天皇の死は、排仏・破仏によるものと噂します。
殯宮敏達天皇葬儀が行われ、馬子は刀を腰におびて天皇の生前の功績を讃える言葉(誄言 しのびごと)を奉ると、。守屋は「矢がつきたった雀鳥(すずめ)のようだ」と笑いました。
次に守屋が身を震わせて天皇の生前の功績を讃える言葉を奉ると、今度は馬子が「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑い返します。
一言:まったく、子供の喧嘩か?)
崇仏・排仏の議論は敏達天皇の後、皇位を継いだ用明天皇に持ち越されますが、用明天皇崇仏派で、蘇我稲目の孫だったのです。
4.用明天皇病死。守屋次期天皇に穴穂部皇子を擁立したが馬子皇子を討つ
その後も疫病の流行は続きますが、いずれにせよ蘇我稲目の孫が天皇では守屋に勝ち目はありません。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようとします。
ところが穴穂部皇子炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとし、三輪逆に阻まれます。
これを逆怨みした穴穂部皇子守屋に命じて三輪逆を殺させます。
馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆きますが、罪悪感すら覚えない守屋は、「汝のような小臣にそんな未来のことなど予知できるものか。」と答えます。
587年、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議する命を発すると、守屋中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対します。
馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させます。
守屋馬子の命令に従った皇子睨みつけて大いに怒ります。
その日、押坂部毛屎帰宅しようとする守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げます。自身に降りかかるであろう危機を告げられた守屋朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募ります
排仏派(つまり守屋に同調していた中臣勝海彦人皇子竹田皇子馬子派=崇仏派の皇子)の像を作り、祈願して相手に災いが及ぶよう呪います。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓います(廃仏派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した廃仏派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、召使いの迹見赤檮中臣勝海を斬った。
一言:つまり廃仏派であった主人たる中臣勝海が、崇仏派の彦人皇子に寝返ったことで、召使いである迹見赤檮がその裏切り行為を断じたということでしょう。
排仏派の中臣勝海が討たれたことに危機感を覚えた守屋物部八坂大市造小坂漆部造兄馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えます。
587年5月21日?用明天皇も疫病(天然痘とされる)を発症して崩御します。
587年6月馬子は用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺。その翌日、宅部皇子誅します。
4.聖徳太子、出陣。守屋は戦死し、物部氏衰退。
587年7月、炊屋姫の命により馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決め、泊瀬部皇子竹田皇子厩戸皇子(後の聖徳太子)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かいます。
守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めます。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけました。
皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされますが、これを見た厩戸皇子(後の聖徳太子)は仏法の加護を得ようとヌルデの木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり、仏教が広く世に行われるよう努めると誓います。
一言:ヌルデってウルシ科の樹木で、多くの人は、その樹液でかぶれる代物ですよ。なのに・・・さすが厩戸皇子こと聖徳太子は、現代人にまで崇められる人物ですね。)
仏の加護を得てか?馬子は軍を立て直して進軍させた。蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込みます。
迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺すと寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散ります。
守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなります。
後の世、この戦いは丁未の乱と称されます。
同年9月9日蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落します。
厩戸皇子摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになり、半分は四天王寺へ寄進されます。
馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためだそうです。
イメージ 1

イメージ 2
四天王寺
魚眼レンズで高さ9メートルから撮影

イメージ 3
法隆寺西院伽藍
超広角レンズで高さ9メートルから撮影

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