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〜蘇我馬子の天下と聖徳太子と推古天皇〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
〜聖徳太子に阻止(そし)された物部守屋の戦い〜の続きを記します。
仏教崇拝を良しとする用明天皇の即位により、仏教崇拝に反対する物部守屋に対して優性に立っていた蘇我馬子でしたが、用明天皇は間もなく病を得て崩御したため、これを劣勢巻き返しの好機と、守屋は次期天皇に穴穂部皇子を擁立します。
587年7月、この事に端を発して炊屋姫は守屋討伐の命を発し、馬子は群臣にはかって守屋を滅ぼすことを決めます。
この四天王の像は小さなものだったのでしょう。
(近つ飛鳥博物館の映像とナレーションによる物語によると)この四天王の像を髪の毛の中に入れた迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺すと寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散ります。(丁未の乱)
守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなります。
こうして豪族としての最高権力は、名実共に蘇我馬子のものとなります。
蘇我馬子 - Wikipediaによれば、
いわゆる仏教文化が隆盛を極める、飛鳥文化の始まりです。
ここまでの記述を読めば、初の女帝となる推古天皇は、蘇我馬子の傀儡(かいらい)、聖徳太子は馬子の協力者と受けとめられがちですが、以下の出来事をみれば、推古天皇は、傀儡(かいらい)ではなく、聖徳太子は馬子に従う者でないことが伺えます。
創建当時の四天王寺には、施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承があり、594年、仏教興隆の詔を発した。595年、高句麗の僧慧慈が渡来し、聖徳太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えたとされるそうです。
601年、この戦いによって得た財をもとに?斑鳩宮を造営します。
604年4月、いわゆる十七条憲法を制定。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調し、9月には朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めます。
(一言:天皇を頂点とする中央集権化を、法律・作法などによって明確に示し、大王(天皇)の地位を絶対的なものとしてのですね。)
605年、諸王諸臣に、褶(しらみ:今で言う礼服ですね。)の着用を命じ、推古天皇は斑鳩宮へ移り住みます。
622年、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌日、厩戸皇子は亡くなります。
(ちなみに:天下人 - Wikipediaによれば、≪もともと「天下」とは、世界の全体を指す抽象概念であり、古代中国の思想概念だったものが、日本でも古代から用いられるようになった。「天下」という言葉は、蘇我馬子が草創した法興寺の塔の露盤銘で、596年 に使用されていることが確認されている。また、天皇という名称の前身にあたるものとして治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)などが存在する。≫とあります。)
ところで、大阪府南河内郡太子町には、古来より村の伝承などにより、蘇我馬子の墓とされる塚があります。
石舞台古墳が馬子の陵墓とされる今日、普通に考えれば誤った伝承と笑い飛ばしたいところですが、
なぜ、太子町にこのような塚があるのか?また、本当に眉唾ものと断言して良いものなのか?
次回は、この2つの疑問を、自由に検討してみたいと思います。
太子町の観光地図には、『馬子の墓』と示されている塚の説明石版
『馬子の墓』と示されている塚
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