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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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大阪府南河内郡太子町に蘇我馬子墓が有るって不思議ですか?
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  

今回は前回の話の流れで、なぜ大阪府南河内郡太子町古来より村の伝承などにより、蘇我馬子の墓とされる塚があり、その信ぴょう性について考えて見たいと思います。

奈良県明日香村にある石舞台古墳の被葬者は、蘇我馬子であったとする説が有力だということを知人は、恐らく少なくないと思われますが、にもかかわらず、大阪府南河内郡太子町にも蘇我馬子の墓があるのはなぜでしょう?
以下の観光地図は、太子町役場において手に入れた『聖徳太子のまち 太子町観光マップ』の一部分です。
イメージ 1
『聖徳太子のまち 太子町観光マップ』の一部

太子町役場公認のこのマップの赤丸で囲んだ部分には、確かに蘇我馬子墓との記入があり、実際そのポイントには、以下のような塚があります。

蘇我馬子墓』の全体像

イメージ 2
蘇我馬子墓』の石塔

蘇我馬子墓』の説明石板

そしてその説明石版には、『植木家墳墓』と題されているものの、その内容を読んでみると、
「この墳は古くから土地の人々によって、蘇我馬子の墓と言い伝えられています。」との文章から始まっています。
とすると、
奈良県明日香村にある石舞台古墳か、大阪府南河内郡太子町にある、蘇我馬子とされる塚のどちらかがどちらかが正しく、どちらかが間違っているのでしょうか?

//蘇我馬子墓//によれば
『太子町太子集落の西方院から山田に向かって旧道を進むと、道の左側に沿って5〜6M四方を生け垣で囲まれた中に一基の層塔があります。ここは聖徳太子墓の南東300mにあたりますが、聖徳太子墓の周辺にはこのような層塔が10基近く残っており、それらは聖徳太子を養育した西方院の三尼公(さんにこう)や、墓前の叡福寺の僧侶の墓と伝えられています。
この層塔は江戸時代の「河内名所図絵」に次のように記されています。
馬子大臣塚 西方院壱町計東の方 民家の前にあり
地元でも、飛鳥時代に聖徳太子を助けて活躍した大臣、蘇我馬子墓として、古くから信仰されてきました。ただ西方院に鎌倉時代初頭の建久4年(1193)に描かれたとされる原図を、江戸時代末期に模写した「建久四年古図」が伝わっており、その図には妹子大臣墳」と記されています。
これらの点から、明治36年に発刊された「大阪府誌」には、
蘇我馬子塚 (略) 伝へ云ふ馬子を葬りし地なりと。又或いはいふ妹子の塚なりと。然れども妹子の塚は山田村科長神社の南一町にありと云へば。今いづれとも定め難し。
としています。「大阪府誌」がいうように山田にある小野妹子と混同されたものなのでしょうか。
しかし蘇我馬子とするにしても、大和飛鳥の石舞台古墳が彼の墓と推測されていることや、馬子の権勢と合わせて、この層塔をみると大きな疑問が残ります。更にこの層塔はその形式からみて鎌倉時代に造られたとみられ、蘇我馬子小野妹子のいずれを取るにしても、彼らが亡くなった飛鳥時代の600年ほど後になり、いずれの可能性もないものと思われます。
この層塔を考える上で興味あるのは、鎌倉時代中頃に法隆寺の僧・顕真(けんしん)が著した「聖徳太子伝私記」に記されている次の資料です。
          蘇我馬子廟桃源者 河内国科長東条石川也 御廟辰巳方也
当時、頂点に達していた聖徳太子信仰の聖典のひとつされたこの「聖徳太子伝私記」にみえる”聖徳太子墓の辰巳(南東)の方に蘇我馬子がある”とされたこの記録によって、この層塔が建立された可能性の高いものと思われます。これが後世に継承され、近世初頭の叡福寺文書に、この層塔が蘇我馬子墓として叡福寺塔(たっちゅう)・中之坊(なかのぼう)によって管理されていた事が記されています。この馬子墓伝承が、このように聖徳太子信仰と強く結びついて鎌倉時代に成立していたとすれば、本誌72・73号で紹介した蘇我倉山田石川麻呂蘇我蝦夷墓伝承成立の根源が、この馬子塚にあったのではないかと思われます。
以上のように、この層塔が蘇我馬子墓である可能性はありません。しかし、石舞台古墳蘇我馬子墓とする説が登場して
100年も経たない中で、この太子の層塔が蘇我馬子墓とされて以後800年、地元の人々が時空を越えて聖徳太子墓とともに守り伝えてきたことを思うとき、郷土の人々の蘇我氏に対する篤い想いが偲ばれます。』と記しています。
一言:つまり上にご紹介したページでは、蘇我馬子の墓など嘘と断言していますね。)

また、蘇我馬子の塚には、
『道を挟んで叡福寺の境内とは反対側にある西方院から、民家の間の狭い小径を左へ200mほど行くと、小径の北側にある見事な枝振りの椿の木が目に入る。木の根本は、正面が生け垣でおおわれたおよそ5m四方の空き地になっていて、その中央に凝灰岩を6個積み重ねた石塔がある。土地の人々が古くから蘇我馬子の墓と言い伝えてきた塔である。
蘇我馬子聖徳太子と同じ時代を生きた人物である。当時最大の豪族であり天皇家よりも強大な力を誇った蘇我氏の当主である。大臣(おおおみ)として、聖徳太子とともに国の政治をリードした。仏教受容に熱心であり、我が国最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建立したのも馬子である。『日本書紀』によれば、この飛鳥時代の最大の実力者が死んだのは、推古34年(626)5月(法王帝説では推古35年6月)とされている。馬子の墓は一族総掛かりで桃原(現在の奈良県高市郡)に造営したと伝えられている。
 しかし、蘇我氏の本貫地が河内国の石川であるとする説があるくらい、蘇我氏と河内飛鳥との関係は深い。この付近にも蘇我氏に連なる人々が住んでいたであろう。馬子の死を悼むあまり、彼の供養塔をこの場所に建てて祀っていた可能性がないとは言えない。だが、本人の死から1380年近い歳月が流れ去った今となっては、真実はすべて闇の中である。』と記しています。』
と紹介しています。
一言:こちらのページでは、蘇我馬子の墓が太子町にあることは、ありうる話としていますね。)
イメージ 3


そして私の考えですが、
もし仮に、奈良県明日香村にある石舞台古墳が、蘇我馬子を被葬者とする古墳で、これほど巨大な方墳でありながら、封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説が正しいとするなら、
飛鳥時代に逆賊とされた蘇我入鹿蘇我蝦夷の祖父である蘇我馬子の葬られた石舞台古墳群衆によって発暴(あば)かれることを阻止することはできません。
ですがその様子を知ったこの蘇我氏のルーツの地に住む蘇我氏の一族は、「石舞台の被葬者の骸は救え無くとも、せめて魂だけでも、蘇我氏発祥の地で救いたい。」と、被葬者のない供養塔を建てたとしても不思議ではあしません。
そして現在の蘇我馬子墓江戸時代のもので、計式から見ても鎌倉時代と新しく、蘇我馬子墓とするには年代が合致しないとしても、それは、長きに渡る蘇我一族の墓守の中で、蘇我氏を逆賊と見る者により度々破壊・破損され、その度に新たに塔を建て直したがためのことだと考えることも出来ます。
ましてや、すぐ近くには同じ蘇我一族の一人で、共に推古天皇のもとで政務を担った聖徳太子の御霊廟があるのですから、その意味では太子町に蘇我馬子墓があることには整合性が有るように思われます。
もっと言うなら、戦国時代の武将の墓は、戦死の地・菩提寺・高野山などと、複数存在するのですから。
皆さんはどう思われますか?

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