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〜用明天皇と皇后の存在がなければ、馬子の天下は無かった〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが、後に河内磯長陵に改葬されたという。
第31代用明天皇の陵である河内長磯原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)は、大阪府南河内郡太子町大字春日にあり、聖徳太子御廟(しょうとくたいしごびょう)のある叡福寺も近くです。
もしも、蘇我稲目が娘:・堅塩媛を第29代欽明天皇の妃として嫁がせず、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を儲けていなかったら、そしてその後、用明天皇の即位がなかったり、穴穂部間人皇女が用明天皇との間に聖徳太子を儲けていなかったなら、蘇我馬子→蘇我蝦夷→蘇我入鹿とつながる蘇我氏の全盛と滅亡はなかったでしょう。
ところで、蘇我馬子が覇権を握る上で障害であった廃仏派の敏達天皇には2人の皇后がいました。
対してもう一人の皇后:額田部皇女(ぬかたべのひめみこ:後の推古天皇)は、蘇我馬子の父:蘇我稲目の孫とハッキリと素姓が分かっています。
これで謎は解決したと言いたいところですが、この先妻と後妻の交代劇がいかにもきな臭い。
敏達天皇の暗殺 - So-netによると、
敏達天皇は「蘇我馬子に暗殺され、・・・・敏達天皇の最初の皇后である広姫は、皇后となって間もなく、あまりにも若くして死んでいる。広姫がみまかられた時、額田部皇女は妃の地位に甘んじていたという点、馬子と額田部皇女との関係については、歴史家の間で何かと取りざたされているという点で、広姫の死因にもなにやら暗い影が付きまとっている。
自分の娘を妃に入れられず、額田部皇女にも関心の薄かった敏達天皇を見て、馬子は仏教戦略に出たものと考えられる。しかしながら、仏教を公に認めさせるどころか、敏達天皇の破仏で、馬子はその面目を丸つぶれとされてしまった。
以上のことからして、馬子が「蘇我氏興隆のためには、自分の野望をことごとく打ち砕く敏達天皇を亡きものにする他ない」と、考えたものと思料される。」としています。 (一言:つまり蘇我馬子は、自身の覇権のためには天皇であろうと皇后であろうとことごとく暗殺したと推察しているのです。記紀の記述がどこまで信用できるのかは知らんけど・・・・。)
用明天皇陵(河内長磯原陵もしくは日向山古墳とも)
広角レンズ撮影
用明天皇陵(河内長磯原陵もしくは日向山古墳とも)
魚眼で撮影
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頑張って史跡勉強やっています
2015/3/16(月) 午後 10:00 [ 中路正樹 ]