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〜推古天皇は優れた初の女帝、そして聖徳太子=蘇我馬子?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)は、大阪府南河内郡太子町大字山田にある、東西63m、南北56m、高さ12m、空壕幅7mの方墳で、宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」として第33代推古天皇の陵に治定されています。
『古事記』推古天皇条「御陵在大野岡上。後遷科長大陵也」と『日本書紀』推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」などの記述をもとに、息子の竹田皇子が眠る大野岡上陵(奈良県橿原市の植山古墳と治定)に合葬された後、竹田皇子とともに亡骸が遷された「科長大陵」が本古墳であると治定されました。このため、被葬者は第33代天皇で、最初の女帝である推古天皇と竹田皇子で、古墳内部には二つの石室があると推定されています。
平安時代に盗掘され、天皇陵墓を理由にして考古学の発掘調査も行われていないため、実態はよくわからないそうです。
従って被葬者が推古天皇ではないとする説も複数あり、その例としては、推古天皇36年条に葬祭の状況を詳しく記述した『日本書紀』に『古事記』にある改葬の記述がないことなどから、改葬はされておらず、依然として奈良県橿原市にある植山古墳に合葬されたままであるとする説(誰の説か不明)もあるとか。
ところで、推古天皇は、廃仏派の物部守屋を蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)などによって討たれた後、馬子が政権の実権を握り、厩戸皇子(聖徳太子)が天皇に代わって政務を行ったとされていて、天皇としての能力に欠ける女帝であったように思われがちですが、推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したといいます。
(一言:つまり、推古天皇には天皇としての譲れないプライドと頭の良さが有ったらしいのです。)
このように公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(同12年(604年))を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇2年(594年)に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。
推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上ししますが、2年後の同30年2月22日(622年4月8日)に太子が49歳で薨去し、更に4年後の同34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子も亡くなります。
推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。
そのため、この後、舒明天皇以降における皇位継承を巡る蘇我氏と天皇家との熾烈な争いは、その事の真偽には謎も多いものの、現代にまで強烈なインパクトをもって伝えられています。
また、当時の革新的な制度や改革は、厩戸皇子(聖徳太子)が摂政として行ったと最近までは述べられてきましたが、近年の歴史研究により当時は摂政という役職自体が存在しなかったことがあきらかになっているそうですが、これを検証しうるかは不明であり、近年では厩戸皇子(聖徳太子)が、他に秀でた能力を発揮して革新的な立法や仏法の普及を行ったのではなく、蘇我馬子や推古天皇の太子に劣らぬ能力が合わさってこその政務だったようです。
にもかかわらず、これまでは厩戸皇子(聖徳太子)の偉業とされてきたのは、馬子の後、蘇我氏を逆賊とし、推古天皇が史実における最初の女性天皇であったことから、偏った伝承が現在につたわったのだと私は思います。
更に、過去に私たちの世代が教科書で習った聖徳太子像が聖徳太子でなないとされる中、そもそも聖徳太子という人物は架空の存在で、聖徳太子の全名が厩戸皇子(うまやどのおおじ)で、蘇我馬子と共に、『馬』という共通項があることから、「聖徳太子=蘇我馬子ではないか?」とする説が有るとか無いとか。(聖徳太子は蘇我入鹿であり - 嘘八百のこの世界 - FC2などにそのお話があります。)
学術的には認められない仮説であったとしても、面白い発想だと思います。
埋葬されていたであろう石舞台古墳が逆賊として石室全体が地表にむき出しになるほど荒らされたその被葬者が、実は歴史に残る悪人ではなく、次代のスーパーヒーローとして現代に伝わっていたなんて話は実に痛快ではないでしょうか?
推古天皇陵石碑(磯長山田陵もしくは山田高塚古墳とも)
こちらから見ると、確かに方墳だということがうかがえます。
やはり蘇我氏ゆかりの天皇だから方墳なのでしょうか?
それとも隣の二子塚古墳こそが真の推古天皇陵なのでしょうか?
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