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〜二子塚古墳こそ推古天皇と竹田皇子が被葬者?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
二子塚古墳は山田高塚古墳(伝推古天皇陵)の東南約200mの丘陵尾根上にある。墳丘がかなり破壊されているので2つの古墳のように見えますが、2基の方墳が連接した双方墳または長方墳ともいうべきものだそうです。
墳丘は北東から南西方向に築かれ、長辺60m、短辺25m、高さは北丘で4.8m、南丘は6mの規模をもつ。北丘・南丘それぞれの中心部に南東を入口とする横穴式石室が各一基ずつあり、北丘の石室は露出している。内部には刳抜式(くりぬきしき)の石棺がそれぞれ1基ずつ収められています。これらの石棺は家形石棺から、さらに様式化が進んだとみられる蒲鉾型(かまぼこがた)の蓋(縄掛突起が退化している)をもちます。
石室内部には築造当初に漆喰が塗られていたとみられる痕跡が残っている。1956年に国の史跡に指定されています。
ちなみに、長持形石棺は、底・蓋各一枚、長側二枚の板石で、短側石二枚を挟むように組み合わせ、蓋はかまぼこ形を示すものが多く、近畿地方を中心とした古墳時代中期の大古墳の棺です。
(近つ飛鳥博物館のレプリカより)
推古天皇と竹田皇子が被葬者とされるのは、前回ご紹介した、山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)で、『古事記』推古天皇条「御陵在大野岡上。後遷科長大陵也」と『日本書紀』推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」などの記述をもとに、息子の竹田皇子が眠る大野岡上陵(奈良県橿原市の植山古墳と治定)に合葬された後、竹田皇子とともに亡骸が遷された「科長大陵」が本古墳であると治定されました。このため、被葬者は第33代天皇で、最初の女帝である推古天皇と竹田皇子で、古墳内部には二つの石室があると推定されていますが、地元には南東200メートルに位置する双方墳の二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。
私としては、二子塚古墳を推古天皇と竹田皇子の陵墓とするには、やや規模が小さ過ぎる気がします。
【科長大陵について】
豐御食炊屋比賣命 - Uyopediaによれば、
『古事記』原文には、「妹、豐御食炊屋比賣命。坐小治田宮、治天下參拾漆歳。戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。」とあるそうです。
(ちなみに:豐御食炊屋比賣命(とよみけかしきやひめのみこと)とは、推古天皇のことです。)
『古事記』の墓記事は異例で一度移転したことが書かれている。最初の墓(大野岡陵、今の植山古墳)はもともと推古女帝の先立った息子・竹田皇子の墓で、遺勅により、新しく墓を築くことなく竹田皇子墓に合葬してそのまま天皇陵としたものである。しかし当然それでは天皇陵としては不自然に小規模(一応推古天皇崩御時に拡張工事で二倍にはなったが)であるゆえに、後に天皇にふさわしい規模の新陵(現在の推古天皇陵=科長大陵)がつくられた。これには蘇我氏が自家の縄張りまたはお膝元にあたる南河内に歴代の天皇(敏達天皇、用明天皇、推古天皇)の陵墓を造営することで己の権力を記念かつ誇示するといった思惑も働いたのではないかとの指摘もあり、その時期は蘇我氏の権勢が絶頂を迎えた皇極天皇の時代と推測されている。
すなわち「推古天皇陵の移転」は『古事記』全巻の中で最新(最後)の事件ということになる。
人目線
二子塚古墳(北側から撮影)
高さ9メートルから撮影
石室が残る
こちらの方が墳丘の崩れが著しい
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