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〜物部守屋の戦いと、終焉の地〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
西暦587年、大和政権の大連(おおむらじ:王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行う役職。今で言う軍事・警察を職務。)の物部氏と、進歩的な思想で有力帰化人をも配下にした大臣(おおおみ:大和朝廷の最高の官職。連姓の氏の最有力者。今で言う外交・財政を行う役職)という最高位に君臨した蘇我氏の二大豪族が、激しい主導権争いを演じていました。
折しも大陸より伝来した仏教を受容するのか否か、つまり崇仏か排仏かの論議で両者の対立は頂点に達し、さらに用明天皇が在位2年で崩じた後の皇位継承争いでとうとう戦へと発展し、河内の地で武力衝突し、凄惨な戦いを繰り広げます。
この戦いは、両氏族の名をとって蘇我−物部戦争、あるいはその年の干支から丁未(ていび)の変とも言います。
ところが、この古代の内乱の主戦場が何処だったのか、各地に伝承が残っていて、実はよく分からないそうです。
ともわれ、『日本書紀』の崇峻天皇前紀は戦いの様子を克明に記されているので、これに基づいてご紹介しましょう。
廃仏派であった敏達天皇が崩御した後に皇位についた用明天皇は、崇仏派であり仏法を重んじ、実質、王朝において仏教を公認ししたことで、崇仏派の蘇我馬子と覇権を争っていた廃仏派の物部守屋の立場は窮地に立っていました。
とことが、587年夏4月、用明天皇が4月2日に磐余(いわれ)の川上で新嘗祭(にいなめさい:天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ:天と地、全ての神々)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。)を行なった際、疱瘡(ほうそう:天然痘)にかかって倒れられます。
これを聞いて、守屋は別業(なりどころ:古代貴族の別荘)のある河内の阿都(あと:後の河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺))に退きます。
このことにより再び物部守屋が台頭することを恐れた大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)は、 587年秋7月、諸皇子と諸臣とに勧めて、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼすべく、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:後の崇峻天皇)・竹田皇子・厩戸(うまやと)皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰(すくね)大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫(ひらぶ)・膳臣賀陀夫古(かしわでのおみかたぶこ)・葛城臣烏那羅(おなら)らが、一緒になって軍勢を率い進軍し、大伴咋(おおとものくい:囓,咋子とも書く)・阿倍臣人(あべおみひと)・平群臣神手(かみて)・坂本臣糠手(あらて)・春日臣、これらは軍兵をつれて、志紀郡(しきのこおり)から守屋の渋河の家に至ります。
これを迎え討つ守屋は、自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲城(いなぎ:敵の矢を防ぐために、刈った稲を横木にかけて柵のように並べた一種の防壁。)を築いて応戦します。
(一言:この稲城は、稲をいれておく城=収穫した稲を貯蔵するための倉をもつ、堀をめぐらし石や木で垣を築いた強固な城」と解釈する説もありますが、蘇我氏の急襲に抵抗した物部氏が稲を積み上げて急造した砦であると解釈されています。)
このとき、守屋は衣摺(きぬずり)の地の榎(えのき)の木股に登って、来襲してくる蘇我馬子らの大群を木の上から眺め、雨のように矢を射かけ、その軍は強く勢が盛んで、家に満ち野に溢れ、対する皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却したと伝えられます。
この戦いに参戦していた厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)は、瓠形(ひさごがた)の結髪をして、軍の後ろに従っていましたが、戦況が不利であることを察してか、「もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わないだろう」と語ったといいます。
そこで、白膠木(ヌルデ)を切り取って、急いで四天王の像(みかた)を作り、束髪の上にのせ、誓いを立てていわれるのに、「今もし自分を敵に勝たせて下さったなら、必ず護世四王(ごせしおう))のため寺塔を建てましょう」とこの戦いの戦勝願い、誓いを語られました。
そして、蘇我馬子大臣もまた誓いを立てて、「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と語ったそうです。
これによって大連:物部守屋の軍は、たちまち自然に崩れ、兵たちはこぞって卑しい者の着る黒衣をつけ、広瀬の勾原(まがりはら)に狩りをするようによそおって逃げ散ります。
この戦役に大連:物部守屋の子と一族のある者は、葦原に逃げ隠れ、姓(かばね)を改め名を変え、またある者は、逃げ失せて逃亡先も分からなかったとか。
そして当時の人々は「蘇我大臣の妻は、物部守屋の妹だ。大臣は軽々しく妻の計を用いて、大連を殺した」と噂したそうです。
こうして討伐軍が勝利し、物部氏の本宗家は滅亡した。最大の政敵を武力で葬り去ったことで、その後の蘇我家は未曾有の繁栄を享受することになります。
(ちなみに:守屋の別荘があったとされる渋河郡は、大和川の本流であった長瀬川とその分流である平野川とに囲まれた地域で、東は長瀬川を境に若江郷と、西は平野川とその支流猫間川を境に摂津国と、南は平野川を境に志紀郡とそれぞれ接し、北は古くは河内湖を臨んでいたそうです。
「河内志」によれば、渋川郡の跡部郷の境域は、亀井村を中心に渋川村、太子堂村、植松村、久宝寺村にわたる地域で、大阪府八尾市亀井町には跡部の地名が今も残っています。また太子堂には、聖徳太子が物部守屋との戦いに勝った後に建てたと伝えられる大聖勝軍寺が現存します。)
地元でこの寺は「下の太子」または太子堂の名で知られ、大聖勝軍寺の境内入口近くには、守屋の首を洗ったとされる守屋池があり、迹見赤檮(とみのいちい)が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝(はたのかわかつ)が切り取って洗ったと伝えられる池で、俗に「守屋首洗池」とも言われます。
また、近くの八尾市立病院があった路地を入った奥には、守屋を射た鏑矢が落ちその矢を埋めたとされる鏑矢塚(かぶらやづか)の石碑が、飲食店の看板に囲まれて立っており、この鏑矢を放った弓を埋めた弓代塚(ゆみしろづか)の石碑も、近くの竜華中学校の南側にありますが、その周りは今は塚ではなく、四角に区切られた草地になっています。
物部守屋の遺体を葬ったとされる「物部守屋大連墳」が、大聖将軍寺近くの八尾市内で一番交通量の多い国道25号線沿いにあります。以前はその真向かいに八尾市立病院がありましたが、現在は移転して、ショッピングセンターになっています。
ただ、この場所に守屋が埋葬された確証はなく、『河内鑑名所記』や『河内名所図絵』には、小さな塚上の丘の上に一本松のある姿がえがかれていて、明治の初期に堺県の知事だった小河一敏が、表に「物部守屋大連墳」と刻した立派な墓碑を建立し、周囲に玉垣を作りました。
蘇我−物部戦争では、守屋は衣摺(きぬずり)の地に稲城を設けて戦ったとされている。その場所は現在も衣摺(きずり)という地名で東大阪市に残っています。近鉄大阪線の「弥刀(みと)」駅の近くの金岡公園からさほど離れていないところに一条山光泉寺(所在 東大阪市衣摺3−15−25)という寺があります。
その築地塀の角にある地蔵堂に沿うように、地名縁起を記した「衣摺顕彰之碑」が建っています。
それによれば、『聖徳太子(厩戸皇子)は、やむを得ぬ戦いのために亡くなった守屋を惜しんで、守屋戦死の大榎(えのき)に袖を摺りつけて落涙されたので、この地を衣摺(きずり)と呼ぶことになったという”。さらに、”稲城の跡は、衣摺神社、光泉寺となり、大榎は脇芽が相次ぎ生い茂り、その巨大な根株は大正初期まで存在していた』と記されています。
ただし、稲城が築かれたと伝承されている場所が八尾市内には数ヶ所ありますがこれについては次回に触れたいと思います。
ガストの看板の←の方向に『物部守屋大連墳』が、
石の鳥居に刻まれた物部守屋大連の文字
『物部守屋大連』と下に『墳』の文字が隠れています。![]() |
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