|
〜大聖勝軍寺の四天王、蘇我馬子・秦川勝・迹見赤檮・小野妹子はどれ?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
前回ご紹介したように、八尾市太子堂3丁目にあり、「下の太子」の名で親しまれているという真言宗の椋樹(りょうじゅ)山大聖勝軍寺が守屋の本拠「渋河の館」であり、丁未(ていび)の変の戦場だったとする説があり、「聖徳太子古戦場」と彫られた巨大な碑が参道脇に建っていて、いかにも古戦場だったことを印象を付けています。
椋樹(りょうじゅ)山大聖勝軍寺の寺伝には、当寺を中心として、河内一円を鮮血で染める民族の一大悲劇が展開されましたが、その際、16歳でこの戦いに参加した厩戸皇子(=聖徳太子)は、守屋の大軍に包囲され、「椋(むく)の大樹」の幹の空洞に隠れて九死に一生を得たという。
その椋の巨木が、境内の右手に石垣で囲われてそびえています。
寺伝の伝承があたかも事実だったことを示すように、幹の空洞には太子像が置かれていて、その前には、太子が馬に乗ってこの石の上に乗られると、その所がくぼんで馬蹄の跡がついたと伝えられる馬蹄石が置かれています。
聖徳太子救命の楠
「椋(むく)の大樹」の幹の空洞に隠れて九死に一生を得たことを再現した祠
(すみません。誤記を修正しました。)
太子伝等に仏教伝来時 崇佛の蘇我馬子 敬神の物部守屋が激突 守屋は八尾に「稲城」を築きその兵力強大 崇佛軍三度敗退す 太子 守屋の大群に囲まれ絶体絶命の時 楠の大木真二つに割れ太子を包み九死に一生を得て太子最後に四天王の加護を祈り守屋を倒す
さらに、太子は椋の木を取り巻くように茂っていた白膠木(ぬるでのき)で四天王像を刻み、頭髪に頂かしめ必勝を誓願した。そのため、物部守屋を倒すことができたそうです。
そしてこの木造四天王立像も本殿の植髪太子像の傍らに安置されているとか。
これらの像は、4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体だそうです。そして、 山門前の右手にも太子像を囲む形で四天王像が置かれています。
残念ながら本殿に安置された木造四天王立像や植髪太子像は見学できませんでしたが、大聖勝軍寺の山門前には、聖徳太子の石像を取り囲むように、四天王像が設置されています。
これら四天王像には持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)というモデルが設定されているとのことなので、それぞれに当てはまる四天王と人物を画像に記入してみました。
画面左の像は、持国天(蘇我馬子)で間違いないと思います。では画面右の像が多聞天(秦川勝)とした根拠を述べるなら、「迹見赤檮(とみのいちい)が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝(はたのかわかつ)が切り取って洗ったと伝えられる。」ことから、多聞天(秦川勝)の手に剣があると判断したからです。
とすると、画面右奥の弓と矢を持つ像は、広目天(迹見赤檮)ということになります。
そして画面左奥の像が一番確証を持てなかったのですが、消去法で増長天(小野妹子)と判断しました。
![]() |
全体表示
[ リスト ]






実は更新の度に見てました(笑)
更新、頑張っているんですがどうしても上手く書けないのでスランプ中です(;´∀`)
私はまだまだなんですけどBOとか色んな事をまとまりなく書いてます(笑)
私のイチオシの事とかも書いているので、是非見に来て下さい♪
2015/3/21(土) 午後 11:47 [ ゆうママ ]
ゆうママさん
コメントありがとうございます。
そちらにご訪問させていただきましたが、ブログらしき記述には見えず、
なにやら怪しげなお誘いのみが印象に残るページでしたので、
何もせぬままおいとまさせていただきました。
ママなら子育て・料理何でも書けることでしょう。
ブログ、頑張ってください。
2015/3/22(日) 午後 7:23 [ 上から目線 ]