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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜物部守屋が戦った伝承の地は太子堂だけじゃない
              サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  
前回ご紹介したように、大聖将軍寺は、数々の石碑や石造などが設置され、立地的にも交通量の多い国道25号線沿いにあることから、物部守屋が朝廷軍と戦った主戦場だったことを強く印象付けていて、物部守屋の変とも言われる丁未の乱ていびのらん)は、大聖将軍寺のある場所が中心地だったことが確定しているかのようです。
ですがこれまでにもご紹介しているように、丁未の乱ていびのらん)にまつわる伝承が残る地域は大聖将軍寺だけではありません。
今回はそうした地域を改めてご紹介しておきます。

丁未の乱ていびのらん)の主戦場候補一つ目:大聖将軍寺(八尾市太子堂
確かに、大聖将軍寺はその周辺にも鏑矢塚弓代塚が存在し丁未の乱ていびのらん)の主戦場としてふさわしい条件が揃っていますので、丁未の乱ていびのらん)の主戦場候補の一つではあります。
ですが厩戸(うまやと)皇子聖徳太子)の史跡が重んじられ、物部守屋の史跡が軽んじられている現状にはいささか違和感を覚えます。と言うより不満です。
日本書紀の記述にあるように物部守屋は本当に悪なのでしょうか?守屋に対する悪の烙印と、厩戸(うまやと)皇子聖徳太子)に対する完全無欠の存在感を押し付けられればられるほど、疑心の念は増すばかりです。
それどころか、むしろ守屋を完全なる悪とした史跡を残すこの辺りの有様こそが、歴史を曲げた証と思えるのです。ですが、この思いについては今ではなく後日語ることにして、話を進めましょう。

ちなみに、物部守屋は未の変を何処で何処で戦ったか?の記述者は、日本書紀』の記載を検証するかぎり、厩戸皇子蘇我軍の一人として参戦したが、あくまで後方支援軍の中にいて物部軍と刃を交えた雰囲気は感じられない。ということは、大聖勝軍寺付近は主戦場ではなく、後方支援の兵站が置かれた場所のような気がする。」と自身の解釈を述べています。

鏑矢塚
物部守屋を射た鏑矢を 射ぬいた矢が落ち その矢を埋めたと伝わる

弓代塚
迹見赤檮(とみのいちい)が、物部守屋を鏑矢で射たときの弓を埋めた

このように、鏑矢塚弓代塚は、守屋への鎮魂の碑ではなく、朝敵の血に穢れた武具が破棄された忌まわしき地といった印象を与えられる史跡となっていて、鏑矢塚は複数の飲食店看板に周囲を占有され、弓代塚にいたっては、史跡というようりは、旧街道の地に残る道標であるかのように、物陰にひっそりと建っています。恐らく、心ある歴史ファンがこの地を訪れたなら、そのぞんざいな扱いに愕然とすることでしょう。

丁未の乱ていびのらん)の主戦場候補二つ目:一乗山光泉寺付近(東大阪市衣摺(きずり)
大聖勝軍寺から直線距離で北北西に3.4キロほど行ったところに、衣摺(きずり)町という地名があります。


『日本書紀』には、587年の丁未(ていび)の乱では、物部守屋衣摺(きぬずり)の地稲城(いなぎ:稲を積んで築いた砦)を設けて戦ったことがに記されているそうです。
それによると、守屋は榎の木股に登って、上から押し寄せる蘇我軍を眺め、雨のように矢を射かけ、開戦当初は優性だったものの、最後は迹見首赤檮(とみのおびといちい)が放った鏑矢に射貫かれて絶命します。
現在の浄土真宗大谷派の一乗山光泉寺(東大阪市衣摺3−15−25)の築地塀の北の角には地蔵堂があり、これに沿うように、平成元年10月、衣摺の奥囲裕一郎氏の出資によって衣摺顕彰之碑が建てられました(撰文・書:衣摺を語ろう会長佐野一雄氏。世話役:栗山三郎氏)。
「衣摺顕彰之碑」には、上記の地名縁起として、聖徳太子(厩戸皇子)は、やむを得ぬ戦いのために亡くなった守屋を惜しんで、守屋戦死の大榎(えのき)に袖を摺りつけて落涙されたので、この地を衣摺(きずり)と呼ぶことになった』という地名のいわれを紹介し、更に『稲城の跡は、衣摺神社光泉寺となり、大榎は脇芽が相次ぎ生い茂り、その巨大な根株は大正初期まで存在していた』と付け加えています。
物部守屋は未の変を何処で何処で戦っの記述には、後世になって、この「稲城」をはじめ物部守屋の戦いのゆかりの地の多くが、八尾太子堂聖徳太子ゆかりの大聖勝軍寺周辺に比定されていますが、史実から見て物部守屋最期の地「稲城」は、ここ衣摺が妥当だと言われていることを紹介しています。

丁未の乱ていびのらん)の主戦場候補三つ目:若江山光蓮寺(八尾市南木の本
若江山光蓮寺に伝わる稲城木の本に設けられたという伝承は、守屋阿都の館が現在の太子堂あたりから木の本にわたる広大な地域にあったことを物語ると解釈されますが、丁未の乱によって守屋が討たれたことにより阿都の館は取り壊されます。
光蓮寺寺伝によると、現在の光蓮寺は、587年未の乱において厩戸皇子(=聖徳太子)物部守屋を罪有る者として討ち果たし、守屋の死後、その址を寺としたの起源だそうですが、当時は寶積寺と号しました
また、室町時代に作られた聖徳太子絵伝には、守屋木の本の弓削という所に城を構え、諸方より稲を多く集めて山岳のように積み並べ、これを稲村城と言ったことや、城の内に10丈余りの榎木があり、城の後には守屋が祖先の兵神として祀った物部布都(ふつ)大明神があったと記しています。
そして現在の地名木の本(きのもと)はこの榎木の本に由来するとしています
現在、府都大明神は、近くにある本神社(くすもとじんじゃ)のご神体とされます。
しかし、平安時代には現在の若江に移築され、戦国時代になると本願寺勢力と信長軍が兵火を交えた石山戦争近隣の若江城とともに焼失。その後若江から再び旧址である現在の南木の本に遷されたようです。
そして更に1939年には、、この地が物部守屋が稲束を積んで砦を構えたという伝承地であることから、光蓮寺の門前に個人の手により高さ145cmの自然石で稲城址の石碑が建てられたとか。
ちなみに光蓮寺の住職の名前も稲城姓だそうです。

大聖将軍寺から南へ1kmほど行ったところには、光蓮寺(所在 八尾市南木の本7丁目135)があり、その門前に稲城址の石碑が建っています。

イメージ 2
昭和14年に建てられた高さ145cmの自然石ですが、「この地は物部守屋が稲束を積んで砦を構えたという伝承地であり、守屋の死後その址を寺としたのが光蓮寺の起源である。」と記されていて、少なくとも先にご紹介した鏑矢塚弓代塚に対する扱いとは明らかに異なり、朝敵と伝えられる物部守屋の魂に対する敬意の念すら感じられる碑となっています。
そして、光蓮寺の住職の名前も稲城と言うそうです。

椋樹(りょうじゅ)山大聖勝軍寺寺伝には、当寺を中心として、河内一円を鮮血で染める民族の一大悲劇が展開されましたが、・・・・この場所で、太子は尋常な戦法では勝利のメドなしと考えられ椋の木で自身の像を刻まれ、自らの黒髪を断ち切り植髪された。それが、本堂の太子殿に安置されている本尊の植髪(うえがみ)太子像だそうです。
60年に一度しか開帳されない秘仏で、最後に開帳されたのは昭和47年(1972)だったそうなので、次回は2032年ということになるのでしょうか?

ところで、こうした各々の地に残る丁未の乱にまつわる伝承の違いは、果たして今から1400年以上も昔に氏族同士が戦った古戦場の正確な場所などは、人々の記憶の中で風化した結果なのでしょうか?
思うに、現代に至るずっと以前の、古事記・日本書紀の編纂当時から、時の権力者(例えば藤原鎌足=中臣鎌足)にとって都合よく史実は隠ぺい・改ざんされたまま、正史として書き残され、支配されることに馴らされてしまった民は、偽りの史実を何時しか真実として疑うことなく語るようになったからではないでしょうか
支配者にとって重要なのは、史跡の性格な位置を伝えることではなく、民が敬うべきは時の権力者であり、偉大さを刷り込むことなのですから。
そしてその典型的な事例を私たちは、現代の共産国や独裁国家に見ることが出来るのですから。

禅問答を語るつもりはありませんが、疑(うたぐ)るだけの人生は悲しいものです。
だからと言って、仏法などに語られる教え、『信じる者は救われる。』は、果たして真理なのでしょうか?
決して安らかな生涯とはならないにしても、真実を見極める力を得ることこそ尊いと私は思います。
興味本位で他者を滅する。あるいは、真実を見極めることを自ら放棄し、カルト教団に入信する若者の急増に、どんな未来が・・・・・。
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