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今回は太子信仰に対する私見を記したいと思います。
蘇我馬子にかかわるこれまでの記述の中で、度々触れた聖徳太子についての記述は、あたかも飛鳥時代より続く太子信仰を否定するかのような記述になっていたかもしれませんが、そうではありません。
今なお謎に包まれた聖徳太子の実像について改めて調べてみると、そもそも聖徳太子という呼称は、厩戸皇子(うまやどのみこ)に対して、亡くなられた後に与えられた敬称なのだそうです。
そして現在、その実在性すら疑問視される中、蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿がそのモデルだったなどとする記述がネット上のあちこちに見受けられます。
そうした記述の内容を大雑把(おおざっぱ)に述べるなら、仏教を体制の中に取り込むことで大王(天皇)を頂点とする中央集権化を目指す中、強大化してゆく蘇我氏という一豪族に危機感をつのらせた朝廷側は、日本書紀の記述の中で、逆賊として一族の未来を葬り去った反面、その功績のみを朝廷への権威付けに利用するために聖徳太子という理想の聖人像を作り上げたというのが、現在の多数意見のようです。
更にこれまでに私が得た情報をもとにした私の厩戸皇子(聖徳太子)に対する認識をご紹介しておきます。
そもそも仏法は蘇我氏(蘇我稲目・蘇我馬子)によって、自らの覇権を得るための手段の一つとして大陸より日本にもたらされたものでした。
これに対して古来より神道国だったことを保守せんとする天皇や豪族の反発も生易しいものではなかったものの、次第に仏法は蘇我氏の思惑どおりに根付きはじめます。
やがて朝廷側の中でも仏法を闇雲に拒否するのではなく、大王(天皇)の権威を高め、中央集権化に利用する方向に向かいます。しかし、それは蘇我氏の増長を容認することにもつながることでした。
ついには大王(天皇)をもしのぐ蘇我氏の権力増大に危機感をつのらせた朝廷側は、蘇我一族を逆賊として抹殺します。
しかし蘇我氏によってもたらされた仏法は、蘇我一族抹殺の後も朝廷に対する権威付けに利用しうるものとして残し、奨励してゆかなければなりません。
そこで仏法を広め壮大なものとした英雄の存在が必要になり、常人には有り得ない架空の聖人として聖徳太子像と太子信仰が、この時代の後も創造されて行き、やがて神格化された聖徳太子像が、広く大衆にも受け入れられ、日々の生活の中に溶け込んで行ったのでしょう。
逆の言い方をすれば、時の権力者によって支配される側の民の暮らしは、そうした信仰心無しには耐えられない過酷なものだったとも言えるのでしょう。
そうしたことを前提に思うことは、もしも聖徳太子像が実在の悪の面を持つ生々しい人物像を歪めて聖人化したものならば、その人物を崇める太子信仰は、江戸時代の武家のみに一種強要された東照大権現(とうしょうだいごんげん)や、現代のカルト教団の教祖、共産国の将軍様・大統領などに対する信仰や恭順心と同等のものとなってしまい、意義有りと答えます。
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