『物部守屋大連墳』は、『河内名所図会』の勝軍寺境域図の右下に「守屋塚」がみえ、塚状の丘の上に一本松のある姿で描かれていますが、幕末には荒廃し、削平されてしまったようです。
しかし明治初年に堺県令小河一敏の指示によって整備されました。現在の墓碑、石鳥居、右側の灯篭一基は、そのとき設けられたものだそうです。
物部守屋薨後千三百五十年には、以下の画像の右奥にある『日本書紀』に、守屋が仏教導入に反対して言ったとされる
「何ぞ国神に背きて、他神を敬せんや」
の言葉が刻まれた碑、が建てられました。
また、左奥の『物部守屋公顕彰碑』は、薨後千三百八十年の記念事業で建てられたものです。
そして、『物部守屋公顕彰碑』に刻まれた文章は次の通りです。
「物部守屋公は、建国の功臣・饒速日命の裔にして、代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ、往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。
我国に始めて仏教渡来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り、一族を挙り此の地に干戈を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられぬ。
嗚呼、然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。
当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは、遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ、大正九年より吾等先輩祀職、年毎に墓所を修め来りて愈々懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り、茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。
昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之」
更に昭和六十二年の千四百年祭のときには、全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられたそうです。
仏敵として長い間辱められてきた物部守屋ですが、明治以降は神道界から顕彰(けんしょう:個人の著名でない功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめること)を受けているのがわかります。
改めて『物部守屋公顕彰碑』をとり囲む石玉垣に刻まれた全国の有名神社の名をみてみましょう。
などなど、
有名神社や変り種神社・以外な由緒を持つ神社など、一つ一つをクリックして見ると、行ってみたい神社がたくさんあります。
ともわれ、今や飛鳥時代の豪族と言えば蘇我氏一辺倒のブームのようになっていますが、少なくと大阪人としては、全国の神社の加護をもって汚名を返上しつつある物部守屋にもついても認識を改め、その生涯を知っておく必要があるのではないでしょうか?