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〜小野妹子までもがなぜ四天王像のモデルとして大聖勝軍寺に?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
ここ数日、蘇我氏にまつわる話の本筋から脱線しましたが、改めて本筋にもどします。
以前、〜大聖勝軍寺の四天王、蘇我馬子・秦川勝・迹見赤檮・小野妹子はどれ?〜において、物部守屋の軍と朝廷軍が戦った丁未(ていび)の変の古戦場とされる椋樹(りょうじゅ)山大聖勝軍寺(八尾市太子堂3丁目)の山門前には、聖徳太子の石像を取り囲むように、四天王像が設置されていることをご紹介しました。
これは、厩戸皇子(聖徳太子)が、椋の木を取り巻くように茂っていた白膠木(ぬるでのき)で四天王像を刻み、頭髪に頂かしめ必勝を誓願した椋樹山大聖勝軍寺本堂に安置されている木造四天王立像に倣(なら)ったものであることと、これら四天王像はそれぞれ、持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)をモデルにしていることも記しました。
ですがこれっておかしくないですか? なぜなら、上記したページでご紹介しているように、確かに聖徳太子・蘇我馬子・秦川勝・迹見赤檮は丁未の変で活躍したようです。
(一言:ただし、聖徳太子の伝説は、にわかには信じがたいし、この乱で活躍したかどうかも疑わしいですが・・・・。)
でも小野妹子はこの変に参戦していないはずです。
なのに大聖勝軍寺山門前の『聖徳太子古戦場』の大きな石碑の奥に建つ石造の中に、持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)と共に、増長天(小野妹子)があったのでは、小野妹子が丁未の変で活躍したかのような誤解を生みかねませんよね。
そもそも小野妹子が何を成した方なのか、ご存知ですか?ご存知ですよね。
小野妹子は、6世紀〜7世紀の、飛鳥時代の政治、外交家です(生没年不詳)。
遣隋使 - Wikipediaによれば、
小野妹子は607年の第二回遣隋使として大唐国に国書を持って派遣され、その国書の中の文言「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや(つつがなしや:ごきげんいかが?平穏無事である)、云々。」と、大陸の覇権を握った大唐国に対して、極東の島国の支配者でしかない朝廷が対等の立場をとった国書を送ったことが有名ですよね。
朝日日本歴史人物辞典によれば、
翌年,隋使:裴世清および下客12名と共に帰国。
(一言:つまり目前の敵:高句麗を討つことを最優先として、無礼な国の使者:小野妹子を無礼討ちにはせず、返書を持たせて返したということです。)
無事に帰国した妹子は、推古天皇に対し,煬帝からの国書を百済人に奪われてしまったことを報告します。
すると、群臣はその失態を責めて流刑にすべきとしますが、天皇は妹子に同行して派遣された隋使をはばかって、これを許しています。
同年,隋使の帰国に際し再び大使として隋に渡ったが、このときの国書には「東の天皇,敬みて(うやまって)西の皇帝に曰す」とあるそうです。
(一言:つまり、今度は高飛車な文言は改めたということです。)
この時、僧:旻,高向玄理(たかむこ の くろまろ),南淵請安ら学生,学問僧ら8名が同行し,彼らはのちに孝徳朝の改新政府で国博士として活躍します。妹子をはじめとするこれら一行は、推古17年に帰国しますが、通事(今で言う通訳)の鞍作福利(くらつくり の ふくり)のみが帰らなかったとか。
ようするに、小野妹子は戦いに参戦するような武官ではなく、文官だったわけで、にもかかわらず聖徳太子古戦場である大聖勝軍寺の四天王像の中に、持国天(蘇我馬子)があるのは、聖徳太子にとって、よく働く掛買いのない部下だったからなのでしょう。
小野妹子 - Wikipediaによれば、
小野妹子の出自は、近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔(こうえい)と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘:老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定されるが、定かではない。
そして、小野妹子の墓とされる墓は他にもあり、
小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説があるものの、それは妹子の父の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会による事前調査が行われたのですが、その後?破壊され現存しないそうです。
妹子の墓までには、かなり長い階段が
この、小野妹子の墓がある場所自体も、かなりわかりにくいです。
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