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〜蘇我氏・物部守屋・聖徳太子の在任と天皇の在位〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
まずはここまでの話の中で、歴代の蘇我氏と、物部守屋・厩戸皇子(死後聖徳太子と称され伝説化)らと、歴代の天皇の関係が文章だけでは分かりににくかった方も多いかもしれないので、図にして明確にしておきます。
ここでちょっとハッキリしないのですが、蘇我蝦夷 - Wikipediaによると、蝦夷の大臣としての在任期間は自害する645までとなっているのですが、蘇我入鹿 - Wikipediaには、643年の10月6日には父から独断で大臣を譲られたとなっています。
ということは、643年には蝦夷は大臣を退いたと理解できるのですが、実質的には覇権を握った蘇我蝦夷・入鹿のダブル大臣だったのでしょうかね。
大臣は、各大王の治世ごとに親任され、反正天皇から安康天皇までの治世に当たる5世紀中期には葛城円が、雄略天皇から仁賢天皇までの治世に当たる5世紀後期には平群真鳥が、継体天皇の治世に当たる6世紀前期には巨勢男人が任命されました。
蘇我馬子が大連である物部守屋を討った丁未の乱後は大連制が事実上廃されたために馬子が単独の執政官となり、以降は蘇我氏が政権の中枢を担うようになります。また、聖徳太子による冠位十二階の制定時、馬子は太子とともに推古天皇の王権を代行する授与者の立場に回ったことで蘇我氏の大臣は被授与者である群臣とは別格の政治的地位を築いた反面、群臣合議から乖離した結果、他の豪族たちからは孤立して後に蘇我氏宗家が滅亡する遠因となったとする指摘もあるそうです。
推古天皇の晩年、大臣は蘇我蝦夷(馬子の子)が跡を継ぎます。皇極天皇の治世に当たる643年、蝦夷は息子の蘇我入鹿に大臣の冠である紫冠を授けて独断で大臣の地位を譲った。大臣の地位のみが冠位制に拘束されず、旧来通り認められることは内外の反発を招いた。645年、いわゆる乙巳の変により、蘇我入鹿は暗殺され、父の蝦夷は自死し蘇我氏の隆盛は終焉します。
この事変の直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣と右大臣を置き、権力集中の防止を図りました。ただし、新しく左右大臣に任じられた阿倍倉梯麻呂(内麻呂)・蘇我倉山田石川麻呂に授けられていた冠は従来の大臣が着用していた紫冠であったと考えられ、648年に大臣にも冠位十二階(前年に制定)に基づく冠を与えようとしたところ、左右大臣がこれを拒んで旧冠(紫冠)を着用し続けた(『日本書紀』大化4年4月辛亥朔条)とあることから、初期の左右大臣は群臣合議体の一員に戻りながらもなお旧来の大臣の影響を残していたとみられるそうです。左右大臣を冠位制に基づく官人秩序に組み込むことが実現するのは、阿倍・蘇我倉山田石川麻呂が死去した649年以後のことだそうです。 蘇我氏・物部守屋・厩戸皇子の在任と歴代天皇の関係図
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