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〜推古天皇の死後、皇位後継を巡る蘇我蝦夷と馬子の弟との争いがあった〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
推古天皇崩御の628年、蘇我馬子の嫡子である蘇我蝦夷は、後継者としての実力が試される蘇我の血筋どうしの争いが勃発します。
628年3月、推古天皇は崩御の直前、有力な皇位継承候補となる2人の皇子を病床に呼び寄せた。押坂彦人大兄皇子の子田村皇子(後の舒明天皇)と、聖徳太子の子山背大兄王である。田村皇子に対しては「慎み深く言動に気をつけよ」と諭し、山背大兄王に対しては「あなたはまだ若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」と遺言します。蘇我蝦夷は、この遺詔から、推古天皇の思惑は田村皇子後継にあったと考え、田村皇子(後の舒明天皇)を次期大王として擁立します。ところが叔父:境部摩理勢(馬子の弟)は、上宮王家(聖徳太子の血筋)の後見人であったことから、これに真っ向から反対し、山背大兄を推薦します。摩理勢はそれ以前、かねてより大臣である兄・蘇我馬子とともに推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)の執政を支え、その過程で聖徳太子一族(上宮王家)との結びつきを深めていたため、馬子の死後は、嫡子の蘇我蝦夷が大臣を継いで朝政を主導していたのに対して、摩理勢も蘇我氏族内の有力一門として発言力を保ち、蘇我氏内部においても朝廷政治においても蝦夷の対抗勢力となり、次第に対立を深めていたのです。そのため摩理勢は、推古天皇の後継として聖徳太子の子である山背大兄王を強く推したのです。
(ちなみに:原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました(恐らく成立時期は5〜6世紀)。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったのですが、それが国家の政治制度として編成し直され、同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ります。蘇我氏を含む平群氏、巨勢氏、春日氏、葛城氏の氏(うじ)を持つ豪族は、臣(おみ)というヤマト王権においても最高の地位の姓(かばね)を与えられます。これはを占めた豪族に与えられた姓(かばね)で、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては王家と並ぶ立場にありました。
そして臣(おみ)に次ぐ姓(かばね)が連(むらじ)で、ヤマト王権での職務を姓(かばね)とした大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏らがこれに該当します。連(むらじ)は、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族です。そして馬子の弟である境部摩理勢の氏(うじ)である境部氏もまた、この連(むらじ)の姓(かばね)で、境部連と称します。つまり、蘇我馬子が蘇我氏の直系として蘇我の氏(うじ)と、臣(おみ)の姓(かばね)を受け継いだのに対して、その弟の境部摩理勢は、蘇我氏から分かれた一族として、境部の氏(うじ)を名乗り、連(むらじ)の姓(かばね)を賜ったのです。)
この境部摩理勢の反抗により、自らにが父・馬子のように独断できるほどの力がないことを悟った蝦夷は、
阿倍麻呂(もしくは阿部内麻呂)と相談した上で自邸に郡臣を集め次期皇位について、聖徳太子の政策である群臣による「合議」にはかります。ところが合議でも田村皇子派と山背大兄王派に分かれて紛糾し、山背大兄王も蝦夷のもとへ自らの推挙を訴え出る始末です。しかし摩理勢に同調する勢力は伯瀬仲王(山背大兄の異母弟)や佐伯東人らわずかであり、蝦夷の懐柔政策も功を奏したため、結局山背大兄王は大王継承を辞退します。この一連の動きの中で蝦夷は、特に蘇我氏一族である摩理勢が山背大兄王を推し、境部摩理勢と同様に馬子の子である蘇我倉麻呂(つまり蝦夷の兄弟であり、境部摩理勢の甥。倉麻呂にとって摩理勢は蝦夷と同様に叔父になる)が態度保留に出たことに危機感を募らせます。
そこで蘇我一族の共同プロジェクトとして馬子の墓の造営を開始することで一族の融和をはり、摩理勢の説得を試みるのですが、山背大兄王が大王継承を辞退する情勢に怒った摩理勢は、従事中であった馬子の墓造営の任務を放棄し、「蘇我の田家」なる施設に立て籠もって公然と蝦夷に反旗を翻します。その後、摩理勢は伯瀬仲王邸へ入り抵抗を続けますが、やがて山背大兄王の説得により自邸に戻ると、ほどなく伯瀬仲王は死去します。
(一言:伯瀬仲王の死去も蝦夷の仕業かな?)
こうしてようやく蝦夷は当初のもくろみであった田村皇子(舒明天皇)を皇位に就けることに成功したのです。
従って舒明朝においては、大王(天皇)に実権はなく、蝦夷が中心となって政務を執行します。特に父である馬子の路線を踏襲拡大しようとしたことがうかがえる事例として、第1回遣唐使が蝦夷の主導で派遣されたことがあげられるとか。 (ちなみに:『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。)
推古天皇陵
陵と同じ高さから更に9メートル高度を上げて魚眼で撮影
蘇我氏・物部守屋・厩戸皇子の在任と歴代天皇の関係図
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