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〜上から目線で見た敏達天皇陵〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編
前回ご紹介したように、敏達御陵のある場所はちょっと分かりずらいですし、「この周辺にはイノシシがでますので・・・」なんて掲示板もある、へんぴな所です。
大阪在住の方に分かりやすくその所在地を示すなら、大阪芸大に隣接していると言えばおわかりでしょうか。
そして敏達天皇については、蘇我氏とのかかわりの中で、、崇仏派の蘇我氏に対して廃仏派の敏達天皇は、いわば蘇我氏と対立的の関係だったことはご紹介しました。
ですが敏達天皇に関するそれ以上の情報は私も知りませんので、残念ながらその実像について記すことができません。
ただ、想像するに、良くも悪くも当時の天皇らしい天皇だったために、保守的な廃仏派の物部守屋の進言に同調して守屋が蘇我馬子との対立を強めて行ったがために、敏達天皇亡き後、返って守屋の討伐へとつながる動きを早めてしまったのでしょう。
ところで、敏達天皇陵(太子西山古墳/奥城古墳)/太子町ホームページによると、
「第30代敏達天皇は、572年に即位され、死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記しています。
敏達天皇陵は全長約93メートルの磯長谷では唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせています。内部については全くわかりませんが、横穴式石室が採用されていると考えられています。また周辺から埴輪が採集され、これらから古墳時代の後期前半に築造されたと考えられています。」 と紹介され、
磯長谷古墳群 - Wikipediaによれば、
更に古墳時代 - Wikipediaからの情報によれば、
後期古墳時代から飛鳥時代の末期古墳時代に入って、見瀬丸山古墳(欽明陵と推定される、全長318メートル、奈良県橿原市)と並んで、敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満)は大王陵前方後円墳最終段階の大王陵とされています。
前回、「次回は敏達天皇陵のプチ空撮です。」と予告しましたが、私のプチ空撮では、敏達天皇陵が確かに前方後円墳であるということを示すことはできません。
敏達天皇陵(太子西山古墳/奥城古墳)/太子町ホームページにはそのことがわかる空撮画像があるのですが、以下のように、とても小さい画像です。
敏達天皇陵の空撮画像
この敏達天皇陵の空撮画像のうち、私がプチ空撮したのは、たかだか画面右下にある四角い地面の部分に過ぎません。
私たちが天皇陵に訪れるとき、人目線では前回ご紹介した画像のような全く同様のフォーマット化された様式のもので、全国どこの天皇陵に行っても、同じ光景を見るばかりです。
これは、江戸時代の徳川の世から大政奉還によって王政復古され再び天皇を頂点とする国家となったことで、その天皇の世を磐石のものとするために、明治天皇のもと、天皇の威勢を世に示すために全ての天皇陵が整備された結果です。
そうした天皇陵の有様に対する正直な感想を述べるなら、「しっかりと整備されていて綺麗と言えば綺麗だけど、代わり映えのしないもの。」と言えます。
そんな中で、あえて特徴的な点を見出すとすれば、御陵の規模意外では、参道の長さや、周囲の様子の違いを見る程度です。
例えば先にご紹介した推古天皇陵は、前面が田畑であり、周囲に比べて一段高い位置に築造られていることから、他の天皇陵には見られない開放的な景観が特徴です。
その意味で敏達天皇陵の特徴を語るとすれば、他の御陵にはほとんど見られない長い参道と、明治時代に整備された天皇陵の様式の四角い平地の部分(玉垣の囲いの中に、石庭のような白砂の平地に、中央に鳥居とその左右に二基の石灯籠を配したもの)の後方にこんもりとした墳墓があるだけでなく、その平地の四方が林に囲まれているという点でしょう。 そしてその特徴は、私の撮影したプチ空撮の画像からも見てとれると思います。
ちなみに普通に人の目線で撮影した敏達天皇陵は、前回ご紹介しました。
次回は前回のお話の続き、『蘇我入鹿が聖徳太子の後継を滅ぼした結果何が』です。
敏達天皇陵
高さ9メートルから撮影
高さ4メートルから撮影
人目線
高さ6メートルから撮影
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