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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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蘇我入鹿が聖徳太子の後継を滅ぼした結果何が
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  

私たち世代も教科書で習ったとおり、大化の改新へと至る乙巳の変において、中臣鎌足中大兄皇子蘇我入鹿を宮中にて惨殺したことは多くの方が知るところでしょう。
ところが、この日本史における大事件の発端が何だったのかを明確に示す記述については、ネット上においても無いように私には思われます。
こう言うと、恐らく複数の方が、「蘇我氏は蘇我馬子以後、あくなき権勢への独占から蝦夷・入鹿に至ってその傲慢(ごうまん)は極限に至り、そのために他の豪族の不満を背景に中臣鎌足中大兄皇子が強行に及んだのでは?」と思われているかもしれません。
ですがそれだけでは不十分です。なぜなら、乙巳の変 中臣鎌足中大兄皇子の二人だけによって成されたのではないからです。
そうです。協力者がいたのです。
『622年4月8日(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇を凌ぐほどになった。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。
626年6月19日、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。
有力な皇位継承権者には田村皇子山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。これが舒明天皇である。
蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。大派皇子敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。
641年11月17日、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。
・・・・・蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。
643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。
・・・・・645年、三韓(新羅百済高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂葛城稚犬養網田に与えた。』と記しています。
この長文のなかで注目すべきは、石川麻呂という人物です。
ここに言う石川麻呂とは、以下に紹介している天皇家と豪族との関わりを示す系図にも示されている蘇我倉山田石川麻呂のことです。
そうです、蘇我入鹿と同じ蘇我氏の一族です。
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)は、645年中大兄皇子中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣」)の韓人は、先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。
その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲したため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子中臣鎌足の陰謀であったとされている。』と記されています。
ではなぜ、石川麻呂中大兄皇子中臣鎌足に加担したのでしょうか?
中臣鎌足が強引に仲間に引き入れたからという理由だけでしょうか?
ここで思い出していただきたいのが、『蘇我入鹿は、山背大兄皇子(転じて山背大兄王)を襲って上宮王家(後に称せられた聖徳太子の血筋)一家を自殺に追いこんだとされ、『日本書紀』にはこの時、蝦夷はこの入鹿の行為を怒り、嘆いたと伝えています。』という記述です。
なぜ蝦夷入鹿のこの行為をことさらに嘆いたのでしょう?
ここに至るまで、蘇我馬子蝦夷の権勢に反感を持っていたのは、他の豪族たちで、蘇我一族の中には、本家による恩恵と恐れもあって、本家をたしなめようとする機運はなかったように思われます。
しかし、この時、入鹿が同じ蘇我氏の血を引く上宮王家一家を自殺に追い込んだことによって、蘇我氏以外の豪族だけではなく、蘇我氏の同族からも反感をかうことになったのです。
だからこそ、入鹿の父:蝦夷入鹿の行為をことさらに怒り、嘆いたのだと思われるのです。
そうです、入鹿のこの時の行為により、蘇我氏本家大和朝廷全てを敵にまわしてしまい、入鹿は自らを破滅に導いたというのが今回の結論です。
 
我氏代々のお話を長々と続けて来ましたが、今回をもってとりあえず蘇我氏についての記述は終了です。
 
次回からの飛鳥時代に関するお話は、聖徳太子に関わるお話となります。
 

イメージ 1
叡福寺山門より
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ある、ある、よくある!^^

2015/4/17(金) 午後 9:48 トビトビ

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さすがトビトビさん、ご賛同いただきありがとうございます。助かります。

2015/4/17(金) 午後 10:19 [ 上から目線 ]


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