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〜天野の里の史跡:修験者の残した記念碑、石造五輪卒塔婆群〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
〜新たな居城地、和歌山県橋本市周辺について〜でご紹介したように、和歌山県伊都郡かつらぎ町は、かつては堺市と同じくくりの中の地域だったわけですが、そのかつらぎ町にある天野の里には、丹生都比売神社をはじめとする幾つもの史跡が残されています。
かつらぎ町の名所などを示す地図
(かつらぎ町マップより)
和歌山県の町区分を示す地図
まず今回のは、そうした史跡の一つである石造五輪卒塔婆群(せきぞうごりんそとうばぐん)をご紹介します。
町石と里石のかたち - 和歌山県観光情報によると、
石造五輪卒塔婆群(せきぞうごりんそとうばぐん)は、明治維新後の神仏分離まで、丹生都比売神社境内の別の場所にあった、鎌倉時代から南北朝時代にかけて修験者(山伏)が建立した五輪卒塔婆4基が、江戸時代の五輪卒塔婆1基とともに神社の外側に元からあった光明真言板碑のかたわらに移されています。
この五輪卒塔婆は一石で彫られた町石とは違って二石造りで高さは2〜3m、建立年代は正面右から延元元年(1336、砂岩)、正安4年(1302、緑泥片岩)、正応6年(1293、砂岩)、文保3年(1319、花崗岩)です。
それぞれに碑伝形式(修験者が峰入り修行の証として宿(行場)に建てた木や石の角柱。板碑の起源になったとの説もある。→ 板碑)をとっているのがこの卒塔婆群の大きな特徴で、建立された年月日をはじめ建立の際に行なわれた写経や祈祷の内容、祈願などが詳細に刻まれており、無名の山伏たちの当時の信仰や儀式の様子が今に伝えられています。
ところで修験者(山伏)という呼名は、度々にユースなどでもその修行の様子などがトピックスとして紹介されたりするので、私たちはそれがどういう者なのか、ビジュアル的に何となく理解している気になっています。
ところが修験者(山伏)とは何なのか?と問われて正確に答えられる人が何人いるでしょう。
修験道 - Wikipediaによれば、
そもそも修験道とは、修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教(こんこうしゅうきょう:様々な信仰が入りまじった宗教)であり、修験宗ともいいます。そしてその修験道の実践者を修験者または山伏というのだそうです。
真言密教の聖地:高野山の中腹にある天野の里に、丹生都比売神があり、そのかたわらに時代時代の修験者の足跡を示した石造五輪卒塔婆群(せきぞうごりんそとうばぐん)は、高野山の歴史を知る上で重要な史跡なのです。
すなわち修験道とは、飛鳥時代に日本へと仏教が伝わる以前、日本古来よりある信仰=古神道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして、神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象としたのですが、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教なのです。
弘法大師が高野山に真言密教の聖地を開く以前、この地域は古神道より派生した山岳信仰の地だったのが、弘法大師によってもたらされた密教と習合して、修験道も盛んになり、それを実践する無名の修験者たちがこの地を数多く往来したことを物語るもの、それが石造五輪卒塔婆群(せきぞうごりんそとうばぐん)なのです。
丹生都比売神社の鳥居を右に見て更に進むと、直ぐに石造五輪卒塔婆群の標識が、有ります。
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