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〜天野の里の史跡:天野の地は飛鳥時代に繁栄を極めた?それはなぜ?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回の予告通り、今回はなぜ天野の地が飛鳥時代に中央政権(大和政権)に対して強い影響力を持ち得たかについてご紹介します。
飛鳥時代のお話については、〜平城京:天武天皇もまた権力の強化をはかり〜や〜蘇我馬子の天下と聖徳太子と推古天皇〜・〜蘇我入鹿が聖徳太子の後継を滅ぼした結果何が〜等々すでに当ブログで数多くご紹介していますのでご覧頂ければ幸いです。
さて、今回のテーマですが、なぜ天野の地は飛鳥時代に力をもち、天照大神の妹:丹生都比売神=丹生明神ををご祭神とする神社を創建することができたのでしょうか?
それは、「丹生」の語源から読み取ることが出来るようです。
丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、」という記述があるのですが、前回はこの部分をあえて削除してご紹介しました。
そこで先ず、「丹」という文字の持つ意味を検索してみました。
するとたん【丹】[漢字項目]の意味 - 国語辞書 - goo辞書には以下のように記されています。
たん【丹】
[常用漢字] [音]タン(呉)(漢) [訓]に あかい
1 鉱物の一。辰砂 (しんしゃ) 。「丹砂 (たんさ・たんしゃ) 」
4 練り上げた薬。「反魂 (はんごん) 丹・万金 (まんきん) 丹」
6 丹波 (たんば) 国、または丹後 (たんご) 国。「丹州」
[名のり]あかし・あきら・に・まこと
更に「丹生」という言葉を検索してみると、丹生鉱山 - Wikipediaには、
歴史の項目に、
「三重県多気郡多気町にあった丹生鉱山(にうこうざん)は、縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていた。」
地名の項目には、
「鉱山の名称であり、地名ともなっている「丹生」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力である。
高野山麓には丹生都比売神社が存在し、ニウヅヒメが祭神となっている。ニウヅヒメは元々、大和国の丹生川のはてに住んでみえたので名付けられたという。現在、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」であり、同神社は同信仰の拠点となっている。また、ニウヅヒメは伊勢国に姿を見せたともされている。同地は丹生氏の本拠地だったともいわれ、水銀にまつわる神と考えられる。この事から丹生都比売神社と、同町丹生地区の丹生神社は・・・・・と水銀鉱業に関するつながりもあるものと見られる。」
以上の記述からお分かりのように、「丹」の文字それ自体に水銀(の鉱石)の意味があり、「丹生」とはつまり、「水銀を生む土地」と解釈することが出来ます。
そして古代の項目では、
「7世紀末、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)9月28日の条であり、常陸国・備前国・伊予国・日向国、そして伊勢から朱砂(辰砂)が献上されている。とくに、伊勢国の場合は、朱砂とともに雄黄(石黄)が献上されている。雄黄は有毒なヒ素鉱物ではあるが、当時は貴重な薬品として流通していた。丹生鉱山の大きな特徴として副産物の石黄の産出が多いことがあり、現在のところ、このとき献上された伊勢産の水銀は丹生産の物であったと考えられている。713年(和銅6年)には、伊勢国のみから朱砂が献上されている。
905年(延喜5年)の『延喜式』には、朱砂と水銀に関する規定が記されている。また、民部下「交易雑物」には、伊勢国から水銀400斤が朝廷に献上されている。水銀の生産は圧倒的に伊勢国であったと見られるが、同時に大宰府からも朱砂1000両が献上されており中国からも輸入していた可能性もある。
古代における水銀の用途は、朱(弁柄)、赤土(丹土)と共に朱砂が顔料として用いられていた他、アマルガムメッキ用に水銀が用いられていた。特に奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の建造の際には、熟銅73万7560斤とともに、メッキ用に金1万436両、水銀5万8620両、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。この際に使用された水銀が全て伊勢産で賄われていたかは不明。ただし、その後、戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。
伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として中国にも輸出されていた。1056年(天喜4年)、藤原明衛の『新猿楽記』には猿楽見物客の一人として、八郎真人なる「商人の首領」が登場している。彼は「唐物」として中国産の朱砂を扱う一方、「本朝物」として国産水銀を中国に輸出していた。この頃は後述の大仏再建におけるエピソードも考慮すると、すでに国産水銀の生産のピークを超えていた可能性がある。」
という記述があり、水銀や朱砂が古代の日本国において、土器・顔料・薬・メッキ、更には輸出品として、極めて重要な物であったことが明確に読み取れます。
ところが、この古代の項目の記述からすると、丹生の地そのものが水銀を産しているような記述ではなく、伊勢に大きな鉱山が有ったことが明記されているのみです。
これをどう天野の地と関係づければ辻褄が合うでしょう?
そこで熊野古道の地図をご覧ください。
熊野古道の略図(熊野古道とは?より)
熊野古道の地図から伊勢と高野山の山麓にある天野の地を関連づけるとすれば、それは小辺路に着目することが出来ます。
推察するに、伊勢で産した丹砂 (たんさ・たんしゃ)は、小辺路を通って流通したため、天野の地が重要な拠点となったのではないでしょうか。
他にも流通経路としては大峰道も考えられますが、さすがにこの経路は急峻であるために、流通路としては敬遠されたと思われます。
このように、天野の地は伊勢で産した丹砂 (たんさ・たんしゃ)の流通経路の拠点として栄えたと考えることは出来ますが、だとしても長い経路の中でなぜピンポイントで天野の地が栄えたのでしょう?
それは恐らく、飛鳥時代の中央政権である奈良の地にあった大和朝廷からは、現在の和歌山県橋本市へと至る旧大和街道には、奈良と和歌山の県境に真土峠があるものの、さして急峻な峠ではなく、ここを過ぎればほぼ紀ノ川の源流である吉野川と紀ノ川に沿った比較的緩やかな道のりです。
ところが紀ノ川から天野の里へと昇るには、当時は、現在女人高野の一つとして知られる慈尊院の上部にある丹生官省符神社を経由して、和歌山県伊那郡かつらぎ町三谷にある丹生酒殿神社 から急峻な山道を登らなければならなかったからでしょう。
近年、紀ノ川を挟んで国道24号線の対岸には和歌山県道13号和歌山橋本線(地元では通称:河南道)が広く立派な道路として整備されましたが、それでも三谷や渋田から天野の里へと至るには急峻な曲がりくねった道路を登らなくてはなりません。
ですが天野の里に入った途端に水田の広がるかなり広々とした盆地が眼前に現れるのです。
いや、「丹生」の名や「古代に水銀や朱砂を採掘・加工していた氏族の名前とされる。」という記述があることからして、この地で丹砂 (たんさ・たんしゃ)から水銀を精製していたと考えるのが妥当なのでしょう。
次回は天野の里が影響力を失った?理由を考えてみたいと思います。
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