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〜天野の里の史跡:天野は朝廷へ戦いを仕掛けた土蜘蛛一族の里?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回は、「「丹生」の名や「古代に水銀や朱砂を採掘・加工していた氏族の名前とされる。」という記述があることからして、この地で丹砂 (たんさ・たんしゃ)から水銀を精製していたと考えるのが妥当なのでしょう。」と締めくくり、
次回は天野の里が影響力を失った?理由を考えてみたいと思います。と予告しました。
ですが、、「丹生」を丹念に調べて行くと、どうやらこれは飛鳥時代の技法ではなく、日本では弥生時代から中国より伝わったようです。ということは、大和朝廷ではなく、邪馬台国の卑弥呼らの時代に遡ることに。
こうした丹砂 (たんさ・たんしゃ)に関連する古代の痕跡をたどってゆくと、それに付随するように「土蜘蛛一族」の名が浮上してきました。
土蜘蛛 - Wikipediaによれば、
「古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている。
また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ、すなわち、穴に籠る様子から付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)。」
と記され、その後に「葛城の土蜘蛛」という項目が続きます。
果たしてこれが丹生の里とどう関係しているのでしょう?
丹生都比売伝承 - 神奈備にようこそ indexによると、水銀の神を祀る丹生神社は日本の各地に数多く存在し、それが中央構造線に沿って点在していることを紹介し、そのルーツを紐解いています。
「揚子江の南、西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産す。
稚日女は、江南の呉王国の妹王女 として生を受けた。姉王女は大日女と云う。この地は遙か東の倭国に至る 中央構造線 の西端に当たる。 呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていたことから、国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉戴し、まさに呉越同舟で船出をし、新天地の倭国へ向かい、
南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶(はんりょ:夫)を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。狗奴国の狗は呉(gu)であるか。 妹姫の稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。 稚日女姫を奉戴した一族は熊本の八代や 佐賀 の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。 」と記しています。 そしてその後もこの一族は中央構造線 に沿って水銀鉱石を求めて東へと移り住み、やがて和歌山へと至り落ち着いたのが天野の里の人々であると考察しています。
また、先に水銀鉱石を求めて東へと移り住んだ 稚日女姫を奉戴する一族は、やがて九州に残った大日女姫=天照大神の一族によって同族とも知らず、後の神武天皇もしくは応神天皇の軍によって討伐されることもあったようです。
さて、葛城というと、以前蘇我氏の歴史を語る上で〜葛城氏の滅亡から始まる蘇我氏の繁栄〜にてご紹介した日本最古の土着豪族として歴史に残る葛城氏を思い出します。
その折にもご紹介したと思いますが、
葛城氏の特徴として、5世紀の大王家(大和朝廷以前の天皇家)との継続的な婚姻関係を結び、、大王家とも比肩を並べるほどの栄華を極めますが、雄略天皇とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなりました。(眉輪王の変)。
「土蜘蛛の中でもに奈良県の大和葛城山いたという「葛城の土蜘蛛」とは、葛城氏の血筋ではないでしょうか?
大和葛城山の葛城一言主神社には現在も土蜘蛛塚という小さな塚があり、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。」と土蜘蛛 - Wikipediaには記されていますが、葛城氏なら天孫系の豪族ですから、天皇家と同等に神的な存在、つまり一言主であっても問題はありませんし、天皇家に逆らって滅んだという点で土蜘蛛とも言えますよね。
また、葛城で連想する者としては、 先に〜天野の里の史跡:石造五輪卒塔婆群にある脇ノ宿石厨子と役行者〜でご紹介した役行者を祖とする葛城修験道があります。
役小角 - Wikipediaには、伝説として
「役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛城山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛城山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。」
この場合は、葛城氏が滅亡した5世紀ではなく、7世紀後半の出来事です。
つまり、役行者は朝廷に従わない「葛城の土蜘蛛」を退治ようとして逆に「葛城の土蜘蛛」の陰謀にのった文武天皇によって流刑となったということになりますが、その後役行者は神通力をもって流刑地より抜け出ることが出来たことから、以後、役行者を祖とする葛城修験道は朝廷に対して従属することがなかったと思われます。
更に門入と丹生の物語② - 大垣山岳協会には、
「丹生郷で朱砂(丹砂)採掘精製を担ったのが丹生氏だった。『日本書紀』には景行天皇が豊後国大野郡で土蜘蛛を征伐する話があるが、蜘蛛は虫が知る朱と書く。朱の知識を持つ丹生氏を虫に例え服従させた。つまり丹生氏は大和政権の支配下にあったと推測される。」と記されています。
以上のように、朱色の顔料として珍重され、金の精製やメッキにも用いられた水銀の鉱石:朱砂(丹砂)は、莫大な利益を生むものであったがために、天皇家は常に朱砂(丹砂)得るためにその鉱山を巡って土着の一族らを支配下に置こうとし、これに従わない一族を土蜘蛛として討伐の対象しつつ、朱砂(丹砂)を確保する一族は富に伴う権力をも持つがために恐れもし、ある時は同じ中国より渡来した天孫系の末裔とも知らずに内滅ぼすことも少なからず有ったのかもしれません。
文末として前回のページに付随して付け加えるなら、土蜘蛛とは必ずしも朝廷に逆らう一族を指すものではなく、当初は、その語源にもある「土隠(つちごもり)すなわち、穴に籠る様子から付けられた者」に対する呼称だったものが、やがてその有様を蔑視する意味から朝廷に恭順しない一族に対して土蜘蛛と呼称するようになっていったのかもしれません。
そして、中国より九州大分に渡来した稚日女姫の一族に随行した越人がやがて天野の里に土着して朱砂(丹砂)を採取・精製するも、やがて天野の朱砂(丹砂)は枯渇、その後は大日女姫=天照大神の一族である朝廷に恭順して伊勢の丹生村より産する朱砂が運ばれ、水銀を精製し続けた。それが天野の里だったとも考えられないでしょうか。
丹生酒殿神社
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