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〜天野の里の史跡:本当に天照大神の姉妹は呉の国から来たの?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回は、水銀の神としての丹生都比売神を祀る丹生神社と水銀鉱床が中央構造線に沿って多数存在することから、天照大神とその妹の丹生都比売神を中国の三国時代の国の一つである呉の国の王女姉妹である大日女姫(=天照大神)と稚日女姫(=丹生都比売神)が騒乱の中国を離れて九州に渡来したのが大和朝廷や丹生神社などの起源だとする説を紹介する丹生都比売伝承 - 神奈備にようこそ index を中心に取り上げてご紹介し、
加えて丹生都比売神社のある天野の里に関係があると思われる葛城修験道や蜘蛛一族などについても触れました。
私自身が面白いと感じてご紹介したお話でしたが、大和朝廷・邪馬台国・天皇家の起源などについては、現在も激しい論争があり、丹生都比売伝承 - 神奈備にようこそ indexもそうした仮説の一つです。
果たして天皇家の起源につながる大日女姫(=天照大神)と稚日女姫(=丹生都比売神)は本当に中国の王女なのでしょうか?
とは言っても偉い学者さんたちが論争して決着していない事を無名のブロガーに過ぎない私に事の真偽がわかるはずもありません。
なので前回は他者のページを引用してほんの少しまとめるだけの作業なのに、随分手こずってしまいました。
ですが日本神話は、いくらかは史実に沿った記述もあるものの、その多くが古代人(特に権力者から見て重要な物事を)庶民にうやうやしく崇め奉らせるために、後付けで創作されたものでしょう。
らなば今回は今一度別の角度から前回の記述を見直してみようと思います。
西国の日向で発展した部族が東征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、初代天皇の神武天皇になったとするものでしょう。
ご存じかもしれませんが、天皇家の系譜のうち、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇については、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されておらず、実在したか否かが不明なため、欠史八代と呼ばれています。
つまり天皇家は人代になっても分からないことだらけです。
そこで紀元4世紀の日本に何があったか(EJ第595号): INTEC ...が気になったので簡略してご紹介します。
「日本の古代史に「4世紀の謎」というものがあります。
紀元2〜3世紀の中国は戦国時代、「三国志」の時代です。魏、蜀、呉の3国が覇権を争い、お互いに一進一退を続けていたのです。そして、結局は漢王朝を継承する魏が勝利して、三国志の時代は終るのです。
邪馬台国の女王、卑弥呼は魏とかねてから親交を深めていたため史書三国志」の中の「魏志」には「倭人の条」が設けられているのです。これが「魏志倭人伝」です。 卑弥呼が死んで、男王が何人か立った時期は国内が反乱し情勢が不安定になりますが、女王台与が即位すると混乱は収まります。 ちょうどその頃中国は西晋が魏を滅ぼして天下をとります。台与は直ちに西晋の皇帝に遣いを派遣して親書を送ったのが266年のことで、邪馬台国にとってこれが歴史に残る最後の記録となります。
以後中国の歴史書に「倭国」の文字はなく、邪馬台国は歴史から消えてしまったのです。
再び倭国の名前が登場するのは5世紀になってからです。その間ちょうど100年間です。
3世紀までの記録はあるのですが、次に記録があらわれるのが5世紀というだけでなくもっと大きな謎があります。 それは、3世紀までの日本と5世紀以降の日本とでは、文化が劇的に変わってしまっているからです。3世紀までの日本は小さな国単位の農耕文化だったのですが、5世紀以降の日本は中央集権的な古墳文化へと姿を変えてしまったからです。そのため4世紀を「謎の4世紀」と呼ぶのです。 一体4世紀に何があったのでしょうか。 この謎に対して日本は朝鮮半島からのある勢力に征服されたという「騎馬民族征服王朝説があり、これを多くの資料から裏付けたのが、東京大学名誉教授である江上波夫氏です。 しかし、記紀の編纂者は、万世一系の天皇のかたちを整えるため神武天皇にはじまって、応神天皇まで15代の天皇が続いたというウソの記述をして真の歴史を隠したのです。
紀元3〜4世紀は、中国大陸の混乱を受けて朝鮮半島情勢も不安定となり、北方の騎馬民族「高句麗」が南下して百済、新羅、伽耶に脅威を与えるようになり百済の王の辰王は日本とは深いかかわりのある伽耶(「任那」(みまな))にきていました。」という内容です。 この「騎馬民族征服王朝説」は天皇家の出自を朝鮮半島と見ていますが、多くの専門家から否定する声が多く見られるようです。
とどのつまり、天皇家や大和朝廷の起源については何の決着も見ていません。
【葛城王朝説】
この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国(中国の三国時代の歴史書三国志(西晋の陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。)にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国とする説などもある。
このうち、大和朝廷(大和王権)のあった奈良には、それ以前、奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配した葛城王朝があり、邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国(中国の三国時代の歴史書三国志(西晋の陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国。)とする黄色線の部分は前回のぺージの「葛城の土蜘蛛」を葛城氏とした私の意見に合致します。
以上の資料をもとに私が考える
●大日女姫(=天照大神)と稚日女姫(=丹生都比売神)の一族の動きは、●
大和朝廷(大和王権)が出来る以前、奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配した葛城王朝=邪馬台国が畿内にあって、魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた崇神天皇の王朝(狗奴国)は、九州にありました。
その頃後に稚日女姫(=丹生都比売神)を奉戴する渡来系一族は水銀鉱床を見つけながらその近くに丹生神社を建立して日本各地に広がり、やがて伊勢の丹生村に大きな水銀鉱床を見つけます。
崇神天皇の王朝(狗奴国)から中央政権となった大和朝廷は、
丹生村の一族を武力によって恭順させ、伊勢と大和を結ぶ経路の中間地となる天野の里を拠点に水銀の鉱石である丹砂(朱砂)の精製に当たらせます。
大和朝廷は巨万の富となる丹砂(朱砂)の精製を一族に命じる代わりに、身分と土地を安堵し、その証として一族の守護となる神:稚日女姫(=丹生都比売神)を、天皇家の守護神:大日女姫(=天照大神)の妹神という高位の神とします。
恐らく、大和朝廷と天野の里人は、同系統の一族ではなかったと私は思います。
一方、大和朝廷(大和王権)以前に大和の国から西日本一帯を支配しながら、朝廷に滅ぼされた葛城王朝(=邪馬台国)の残党は、その後も存在し、「葛城の土蜘蛛」として依然として朝廷に恭順しなかったため、文武天皇の時代に役行者が朝廷より「葛城の土蜘蛛」の討伐を命じられた?
と考えるのですが、どんなもんでしょう?
ちなみに天野の里の民ともなる丹生の一族は、水銀鉱床の見つけ方は知っていたかもしれませんが、中央構造線の存在を認識していたかどうかは疑問に思います。
丹生都比売神社 花盛祭
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