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〜天野の里の史跡:そう言えば、草むらに御影堂跡・多宝塔跡の説明板が〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回は、石造五輪卒塔婆群にある石板碑になぜ切断の痕跡があるのかという謎に迫るべく、明治政府が発令した神仏分離令について言及しました。
今回はそのお話の続きなのですが、そう言えば、石造五輪卒塔婆群の脇には何も無い草むらなのに、御影堂跡と多宝塔跡と題された説明板だけがあります。
謎の石板碑と同様に、今はその痕跡する目にすることが出来ない御影堂や多宝塔も、神仏分離令の中、廃仏毀釈運動の中で、打ち壊されたのでしょう。
高野山入山 -エンサイクロメディア空海-には、「丹生都比売神社の東側にはかつての「多宝塔」跡があり、今は草むらになっているがそこに大峯修験の形跡をとどめる石碑が建っている。
(一言:石造五輪卒塔婆群のことを言っているのでしょうね。)
空海が入定して100年も経たないうちに、高野山は争いごとで荒廃し、住むに住房もなく食もなく、高野山の僧侶は全員この丹生都比売神社に避難し養ってもらったという。」
と記されています。 ああそれなのにそれなのに、空海入定から長い月日が経ったとは言え、明治政府の号令のもと、神社は寺院を見捨た時代があったのですね。
さて、各説明板の内容ですが、
【多宝塔跡】
二層の塔は、高さ二間三尺五寸(4.65メートル)、周りに縁を付け、ご本尊は胎蔵界大日如来を安置し、神社周辺に建立された中心的なものでした。
十世紀中頃、高野山一度目の荒廃のとき、復興に当たった雅真僧都(がんじんそうず)によって建てられ、御影堂とおなじく、神社に向かって正面に建てられていました。堂と谷川の間、一段低いのが昔の各堂塔の参拝道です。
【御影堂跡】
お堂は、方形三間(3.4メートル)、四方に三尺(90センチ)の縁をつけ、本尊は、大師尊像を安置していました。
源頼朝の妻、二位の尼(北条政子)によって建暦元年(1211)建立され、二位の尼が熊野詣でのかえりに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立寄進と共に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、夫頼朝の菩提を弔(とむら)うために建てられたといいます。
(一言:天野社=丹生都比売神社の社殿を3〜4つも寄進した、あの有名な北条政子の恩を忘れて壊してしまうなんて、過去の由緒をよく調べて、ケースバイケースで残すべきは残せるように対処しなきゃダメでしょ!明治天皇さん。)
紀伊天野社多宝塔には、神仏分離令が発令される以前の、神社とお寺の建造物が仲良く立ち並んでいた頃の様子を描いた絵図が複数紹介されていましたので、その一つをご紹介しておきますね。
そして現在、皆さんはご存知でしょうか、神社本庁を?
神社本庁とは庁と名がつくだけに政府機関のように思われますが、宗教法人です。神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する存在であることから、天皇家の正当性を国民に広く知らしめるために神社を優遇し、寺院をおとしめた明治天皇の思惑は現代もなお引き継がれている感があり、時には政治的活動や声明を行うこともあります。
対してお寺では、宗派を超えた包括組織は無いようです。
だからと言って神社の存在を否定してるのではありませんし、神社のお参りも当然します。
神社にはそんな側面もあることを知っておく必要があると、私は思ったものですから。
多宝塔の説明板
多宝塔の説明板
http://www.town.katsuragi.wakayama.jp/top_guide/menu_kanko/meisho/images/tahou.gif http://www.town.katsuragi.wakayama.jp/top_guide/menu_kanko/meisho/images/mikagedou.gif
かつらぎ町 天野の里に紹介されている、多宝塔と御影堂のCG
天野社絵図:寛政5年(1793)墨書、高野山金剛峰寺蔵に説明書き追加
(紀伊天野社多宝塔より) 謎の石板碑にはまだ説明したい事があります。次回はそれを。
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