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〜天野の里の史跡:西行法師が出家するまでの半生〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
西行法師こと西行は、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)と言い、
百足退治伝説が残るほどの武勇に優れた武将:藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)の血筋とされる名門の家に生まれます(藤原 秀郷の9世孫)。
佐藤の氏において祖となる藤原 秀郷は、一旦は罪を問われて没落しますが、王臣の血筋であり、伝説となるほどの武勇を持つ人物であったことから、秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった他、また京都でも武門の名家として重んじられ、子孫は広範囲に分布します。
そんな何の不自由もない名門に生まれながら、西行はなぜ出家したのでしょう?
結論から言うと、出家の理由は不明です。
西行法師小伝によれば、その文頭で、
「西行法師(1118−1190)は平安時代末期の著名な歌人である。漂泊の歌人と称され、生涯を旅の中に送った。自然と宗教的境地の一致した自由な歌を詠んだことで知られている。彼の生きた時代は、平安から鎌倉への動乱期、まさに平家の台頭から源平の争乱期に当たる。その中で彼は世の無常を感じつつ、自然と仏法とに心を寄せ、自由な心でその研ぎ澄まされた歌風を造り上げたとされる。自ら詠んだ
「願はくは花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」
の歌の通りに往生を遂げたことでも古来有名である。
(一言:この歌は現代人にとっても色褪せない40歳を過ぎた人なら、知らない人はいないくらいの名句ですよね。だってJ-POP:ジェイポップにも桜を題材にした歌のなんと多いことか。)
末世戦乱の世の中で、稀なる仏果を得た人物として、同時代の人々に感銘を与え、憧憬の的となったと伝えられている。歌道における名声とも相俟って、後世伝説化が進み、虚実取り混ぜて様々な逸話が伝えられている。」と紹介し、
【出家の理由】については、 『西行物語』(鎌倉時代)には切迫した無常観によるものとあり、『源平盛衰記』(『平家物語』の異本)には、ある上臈女房に対する失恋によるものとある。また室町時代末頃の『御伽草子』「西行」には鳥羽院の女院を恋して出家したとある。また一族で友人であった左衛門尉憲康が急死し、世の無常を感じたとも、政争相次ぐ現世に嫌気がさして俗世を捨てた。など、様々な説が唱えられています。例えば西行法師小伝では、西行より以前に有名な歌人であった能因法師が、名門の家に生まれでありながら俗世の煩わしさを避けて出家し、静かな生活に入った先例に習ったと推察しています。
とまあここまでが、天野の里に西行堂が建てられた経緯に関係する西行の半生です。
ちなみに藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)とは、
939年、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌940年2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われるなど、平将門追討の武功により従四位下に昇り、その武功から百足退治伝説が残るほどの武勇に優れた武将であり、下野国の在庁官人として勢力を保持していましたが、
西行堂の掲示板
西行堂を道路より仰ぎ見る |
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