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〜天野の里の史跡:西行が出家を決意する平安時代後期の歴史背景〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回は西行が出家するまでをご紹介しました。ですがそれはあくまで西行自身の半生です。 そんな西行の半生を踏まえて、天野の里にある西行堂の住人となった西行の妻娘についてご紹介しなければなりませんが、それは次回とします。
まずは西行堂の脇にある説明板の記述の一部を、再度ご紹介しましょう。
「・・・・・・妻は西行が出家して二年後に、この下の後方台地に庵を建て住みました。
娘も十五歳の時、尼となり母と共に生涯を終えました。
母と娘はこの下に葬られ、誰が建てたのか小さな六地蔵に囲まれ、静かに眠っています。・・・・・」
これが説明板にある西行の妻娘についての記述ですが、なぜそうなったのかの理由がわかりませんね。今回はその時代背景をご紹介します。
【西行が生きた時代背景】
佐藤義清(後の西行)は鳥羽上皇を警護する北面の武士でした。
鳥羽上皇は平安時代後期の第74代天皇で、
ところが、顕仁親王の母・待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河法皇に愛されていました。しかも白河法皇との関係は、鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。
その結果、璋子は顕仁親王をみごもったのでした。このことは鳥羽天皇も周囲の者も知っており、いわば公然の秘密でした。
系図を見ればわかるとおり白河法皇は鳥羽天皇の祖父です。祖父の子は叔父になるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と言って忌み嫌いました。
白河法皇も顕仁親王が自分の子であることを知っており、1123年に白河法皇は21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、わずか5歳の顕仁親王を即位させ、崇徳天皇とします。そして新たな天皇の幼さを口実に白河法皇が権力をふるいつづけます。 佐藤義清(後の西行)は鳥羽上皇を警護する立場なので、必然的にこうした骨肉の政争に巻き込まれたのです。
1129年に白河法皇が崩御すると鳥羽天皇は上皇となり、それまで白河法皇よりだった人々を左遷し、白河法皇から遠ざけられていた人々を復権させ、さらに崇徳の子孫が皇位につけないように画策します。
義清(西行)は祖父の代から代々朝廷の警護役を務め、紀伊国(和歌山県)に広大な荘園を持っていました。義清(西行)は16歳ごろから徳大寺家に仕え、和歌と故実に通じ、18歳のころ鳥羽上皇の北面武士に取り立てられます。後に同僚となる平清盛とは同じ1118八年の生まれで、親友になります。
白河法皇に始まる院政は、藤原氏による摂関政治(天皇の代理もしくは補佐をして実験を握る)から権力を天皇家に取り戻すためでもありました。
藤原家の権力回復を意図した関白藤原忠実は、娘の泰子を鳥羽天皇の皇后にしようとし、一方同時期に嫡男・忠通と白河法皇の愛妾・祇園女御の養女・藤原璋子(のちの待賢門院)との縁談も進みますが、忠実は白河法皇と璋子の間に不義の関係があるという噂を鳥羽天皇に伝えたため、鳥羽天皇は両方の縁談を断ります。このため忠実は白河法皇の反発を買い、関白を辞めさせられ、宇治に隠居します。
白河院の死後、院政を継いだ鳥羽上皇により宮廷への復帰が許された忠実は、再び娘の入内(じゅだい)を進め、泰子は鳥羽院の皇后になります。関白を継いだのは長男の忠通ですが、忠実とは考えが合わず、忠実は藤原氏の長者を次男の頼長に譲ろうとします。
それに対抗する忠通は、美貌の藤原得子(なりこ)(美福門院)を鳥羽上皇に紹介し、得子に引かれた上皇は彼女を皇后とします。その仲介の労をとったのが、母が鳥羽上皇の乳母を務め、鳥羽上皇とは乳兄弟だった葉室顕頼(はむろあきより)です。
注:葉室家は、葉室顕頼の父:藤原顕隆こと葉室顕隆(葉室中納言、夜の関白という通称で呼ばれ、権勢を誇った)を祖とする藤原一族です。
得子に鳥羽上皇の愛を奪われた璋子は、激しく得子を憎み、璋子の子・崇徳天皇も母に同情を寄せます。しかし、鳥羽上皇が寵愛する得子を罰するわけにはいかないので、二人の間を取り持った顕頼とその一族を断罪したのです。
窮地に立った顕頼が、何とか璋子の怒りを解こうとして近づいたのが璋子の兄・徳大寺実能(さねよし)で、その手段に企てたのが、葉室氏の娘(萩の前)と義清(西行)との結婚でした。佐藤家(西行の生家)が徳大寺家の荘園の寄進をうけた領主だったからです。若い義清(西行)は主家の言うままに萩の前を妻に迎え、若い夫婦は愛し合い、娘をもうけます。
注:徳大寺実能は、父が藤原公実。母は但馬守・藤原隆方の娘で、堀河・鳥羽両天皇の乳母・藤原光子。待賢門院の同母兄であり、徳大寺家の祖。璋子の兄であることから重用され、1122年に権中納言に任じられた後は、重要ポストを歴任し、1133年には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。
ところが、和歌を通して鳥羽上皇とも崇徳天皇とも親しく接していた義清(西行)は、次第に自分が政争に巻き込まれていくのを知るようになります。京の嵐山にある法輪寺に若い僧・空仁(くうにん)を訪ね、仏の教えを学ぶなど、和歌と共に仏教にも引かれ、自分らしく生きたいと思っていた義清(西行)は、醜い政争から遠ざかろうとしたのかもしれません。
魚眼で撮影した西行堂
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