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〜天野の里の史跡:西行妻娘宝篋印塔について〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
これまでに、なぜ天野の里に西行堂があるのか(=西行の妻娘がなぜ天野の里で暮らしたのか?)を説明するために、〜天の里の史跡:西行堂〜・〜天の里の史跡:西行法師が出家するまでの半生〜・〜天の里の史跡:西行が出家を決意する平安時代後期の歴史背景〜・〜天の里の史跡:西行の妻:萩と、名も残らない娘の墓、そして物語〜と、4ページに渡ってご紹介してきました。
西行の妻娘については、以上をもって完結なのですが、今回ご紹介するのは西行の妻娘を供養するために、墓とは別に建てられた供養塔をご紹介します。その名も西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうつまむすめほうきょういんとう)と言います。
供養塔としてよく知られるものとして五輪塔がありますが、五輪塔が身分の上下に関係なく広く用いられたのに対して、宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、身分が高く、名声のあった故人を供養するために用いられたそうです。
つまり僧および歌人として名高い西行の妻と娘も宝篋印塔にふさわしい者であったということでしょう。
宝篋印塔は滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立されましたが、、五輪塔に比べるとかなり数は少ないようです。
国道脇にある標識
八重桜が綺麗ですが、この画像は2014.4.19日です。
西行妻娘宝篋印塔
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で和歌山県
の文化財に指定されています。 向かって右より二基は応安五年(1372年)建立され、 左二基は文安六年(1449年)に建立されました。 行妻娘宝篋印塔の裏側にある数多くの五輪は、 曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の 郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で 生涯を終えたと伝えられています。 ついでですので、宝篋印塔の構造・意味・歴史などについてもご紹介しておきましょう。
宝篋印塔の各部と名称(関西形式と関東形式の違い)
以下は宝篋印塔 - eoユーザーサポートの記述です。
現在日本で建立されている宝篋印塔は、ほとんど墓相墓の供養塔として建てられています。しかし歴史をたどって行くと、供養塔としてではなく一つのお墓、または色々な思い・目的達成など祈願の為の石塔という面もあります
宝篋印塔の元となった物は中国から伝わりましたが、発祥・伝説をたどると紀元前3世紀のインドまでさかのぼる歴史ある塔でありますが、はっきりと解明されていない謎の多い塔でもあります。
鎌倉時代には完成した形となって現在に至っていますが、時代が下がると形も変化して、鎌倉時代は基壇からどっしりしていますが、江戸時代になると細身になります。また隅飾突起の形も鎌倉時代までのものは、まっすぐ立っていますが、江戸時代になると逆ハの字に広がってきます。 上の写真は、インドのアショカ王の造塔伝説の故事にならって、西暦995年に中国の 呉越王銭弘(ごえつおう せんこうしゅく) 俶が造塔した八万四千の金塗塔(奈良国立博物館所蔵)です。
一般的には、この金塗塔が日本の宝篋印塔のモデルになったと言われています。しかし、最近の調査で中国の石塔宝篋印塔も日本の宝篋印塔の形にも影響があったと考えられるようになりました。 この金塗塔には宝篋印陀羅尼経が紊められたとされています。 宝篋印陀羅尼経の正式吊は「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経《といい、その意味は「一切の如来の奥深い悟りの真髄と、全身舎利の功徳を集積した篋(はこ)という陀羅尼《ということです。また陀羅尼とは、一番すぐれている教えを凝縮させて含んでいるとされる言葉で、梵語音写のまま唱えます。 宝篋印陀羅尼経を要約すると次のようになります。
1.宝篋印塔は百千の如来の全身舎利の固まりで、末法が来ても堅固上滅である。 2.この経を読誦し、または写経し、または塔中に紊めれば、地獄へ落ちるべき者も浄土往生できる。 3.たとえ小塔でも造塔して、神呪をおさめ礼拝すれば、寿命は延長し福徳は無尽となる 宝篋印陀羅尼の功徳 上記の要約した1〜3に重複する点もありますが簡単に功徳を説明すると次のようになります。 1.浄土への往生(極楽往生) 2.仏家への生まれ変わり(成仏) 3.あの世(死後)の苦しみの救済 4.この世で現世利益の「福禄寿《(簡単にいえば幸せ)やあらゆる願いをかなえる。 日本での宝篋印塔の祖形的なものとしては、飛鳥、白鳳時代の遺物の中にも見られますが、石塔としては京都高山寺塔(「高山寺縁起《という文献による推測1239年建立)や為因寺塔(在銘1265年)が最も古い部類のものです。
http://www.eonet.ne.jp/~isitora/houkyou/takayamaji.jpg http://www.eonet.ne.jp/~isitora/houkyou/iinji.jpg
左:高山寺塔 右:為因寺塔
上の写真左側が高山寺塔・写真右側が為因寺塔ですが、現在の物と比べるとシンプルな造りです。最近では古代式などと呼んだりもしますが、大きくどしっとした造りで現在の宝篋印塔には無い風格があります。 鎌倉時代には完成した形となって現在に至っていますが、時代が下がると形も変化して、鎌倉時代は基壇からどっしりしていますが、江戸時代になると細身になります。また隅飾突起の形も鎌倉時代までのものは、まっすぐ立っていますが、江戸時代になると逆ハの字に広がってきます。
宝篋印塔の原型となるものは、塔身の四面・隅飾突起・台座に仏像の彫刻、塔身の四角に 伽桜羅 ( かるら ) 鳥の彫刻があるのが特徴です。 また一般に塔身の四面は「仏像《か「種子《を彫刻します。
(一言:天野の里にある西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうつまむすめほうきょういんとう)には仏像がありますよね。)
宝篋印塔「鶴ノ塔《(京都・北村美術館蔵)
上の写真は日本最古と見られている宝篋印塔「鶴ノ塔《(京都・北村美術館蔵)です。 この塔は曹洞宗の開祖道元禅師が実家久我家を弔う供養塔として、1227年(鎌倉中期、安貞元年)〜1232年(同・寛喜3年)の間に造立したのではないかと推測されているものです。 また塔身の四角には伽桜羅鳥(仏典にみえる想像上の大鳥で仏教を守護する。密教では梵天の化身で正方護持の神とされる)の彫刻がある数少ない貴重な石塔です。 http://www.eonet.ne.jp/~isitora/houkyou/houkyou3.jpg http://www.eonet.ne.jp/~isitora/houkyou/sibutu.jpg
現代の宝篋印塔 塔身の四方梵字
現在の宝篋印塔は通常の角柱墓同様下台と中台があり、その上に蓮華台・基礎・塔身・笠・相輪と続きます。
一般的には、基礎の部分の中央に「為 ○○家先祖代々各霊菩提《などと入れ、正面右端から時計周りに戒吊を入れていきます。 塔身には四方梵字を入れますが、一般的に次の金剛界四仏を刻みます。
(一言:ということは、西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうつまむすめほうきょういんとう)の四方の仏像はみな違うのでしょうか?再度天野の里に行ったら確かめてここに追記します。)
東・・・ 阿閦 ( あしゅく ) のウーン 南・・・宝生のタラーク 西・・・阿弥陀のキリーク 北・・・上空成就のアク 2015年7月12日に宝篋印塔の四方に彫られた仏像を確認してみると、確かに各面の仏像が違うようです。
北面
東面 南面 南面 また梵字の周りには円を刻みますが、これは月輪と言い、仏の知徳が欠けることなく円満であるという意味があります。 しかし上の相輪をよく見てください、一番下に鉢を反対にしたような物があります。これは伏鉢と言い、古い宝篋印塔には必ずこの伏鉢が付いていました。しかし何時からか定かではありませんが、無くなってしまいました。この伏鉢は、お釈迦様のお墓(鉢を伏せた形のサンチー形式の塔)が変化したものと言われている大切なものです。
宝篋印塔や宝塔なども含めここ数十年の相輪には、伏鉢が無いものがほとんどですが、伏鉢のある相輪が本来の形とおもわれます。 鬼王については次回に記したいと思います。
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