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〜天野の里の史跡:鬼王・団三郎の墓、彼らは何者?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回のページで少し触れたように、西行妻娘宝篋印塔の裏側には、数多くの五輪塔があります。
現地の説明板には、「後方の数多くの五輪塔は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。」と記されているのみです。
鬼王とはまたその響きがなんとも興味をそそる名ですが、そもそも「鬼王とは誰よ?曽我兄弟って蘇我兄弟じゃないの?」って言いたくなりますよね。
そこで例によってひつこく調べて行くと、これがまた話せば長い話にどんどん発展していって・・・・・・・でも中々に面白い話ではあります。ではあるのですが・・・・とにかく話をまとめるのがまた大変そうで・・・・全く困ったものです。
そこでまず曾我兄弟について調べると、彼らの物語は、
建久4年(1193年)5月28日、曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)と五郎時致(ごろうときむね)の兄弟が、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩に乗じ、父の敵工藤祐経(くどうすけつね)を討った仇討の物語を題材とし、能、文楽、歌舞伎などをはじめ、様々な芸能で演じられる一連の作品のことを、曾我物と呼びます。
歌舞伎では延宝年間(1673〜1681年)以降、曾我兄弟に取材した続狂言(つづききょうげん)※1が続々と生まれましたが、宝永〜享保年間(1704〜1736年)ごろはことに人気が高く人々に好まれたため、江戸では各座、正月狂言として必ず新作の曾我物を上演する慣わしとなりました。これは明治に入るまで続きました。
安元二年(1176)祐泰は、伊豆の狩り場で工藤祐経(くどうひろつね)に殺された。十郎・五郎兄弟の母親は、後に曽我祐信(そがひろのぶ)に嫁ぎ、曽我の姓を名乗ったあとも、鬼王丸・団三郎兄弟は引続き曽我兄弟に仕えていた。
建久四年(1193)、富士の裾野(すその)の巻狩りで工藤祐経を殺し、父の仇(あだ)を討ったが、十郎は討たれ、五郎は捕われた後に殺された。鬼王丸・団三郎兄弟は、十郎・五郎の遺骨を携えて山桑に帰り、ねんごろに葬ったという。現在でも鬼王家の墓地には曽我兄弟の墓がある。
なお、曽我物語で、十郎の妾(めかけ)として登場する大磯の虎御前が、この山桑を訪れ鬼王家に七年間も滞在し、曽我兄弟の冥福(めいふく)を祈ったといわれている。虎御前が用いたうちかけは、今も残るという。」と記されています。
そしてその曾我兄弟の墓があるのが、千葉県北東部の匝瑳市(そうさし)だと知り、曾我が訛(なま)って匝瑳(そうさ)となったのかと思いきや、これまた調べてみると、
匝瑳の由来は、
「平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によれば、大化の改新(645年)の100年以上前、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった 物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(ばんどう・現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(そうさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。 匝瑳の語源については諸説あって定まっていませんが、 930年代に編纂された漢和(百科)辞典である「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)、略して倭名抄(わみょうしょう)」には狭布佐(さふさ)と書かれています。「狭」は美しい、「布佐」は麻の意で”美しい麻のとれる土地”であったことから、狭布佐(さふさ)が転じて匝瑳(そうさ)になったと考えられます。 なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで”匝(めぐ)る”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで”瑳(あざ)やか”あるいは”瑳(みが)く”と読み、あざやかで美しいという意味があります。」というベストアンサーが、千葉県の地名、匝瑳(そうさ)は、大変古い ...- Yahoo!知恵袋に載っていました。 鬼王・団三郎にまつわるお話は、次回、次々回と、まだまだ続きます。
西行妻娘宝篋印塔の裏側に鬼王・団三郎を供養した五輪塔があります。 |
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