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〜天野の里の史跡:曾我兄弟の仇討ち(鬼王・団三郎の墓にまつわる話)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
前回でも触れたように、和歌山県伊都郡かつらぎ町の山里:天野の里にある西行妻娘宝篋印塔の裏側には、数多くの五輪塔があり、その説明板には、「後方の数多くの五輪塔は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。」とその説明板には書かれています。
ですがその説明だけでは全く理解できなかったため、調べたてみると、曾我兄弟は、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に史実として記録がある仇討で有名な武将で、延宝年間(江戸時代の四代将軍徳川家綱)の頃より歌舞伎や能のモデルとして演じられたことから、明治に入るまで広く知らていた人物であることがわかりました。そして鬼王・団三郎はその従者として曾我兄弟の死後も忠義を尽くし、天野の里で生涯をおえるのですが、
今回は曾我兄弟の仇討ちをご紹介します。
現代人にとって仇討ち(あだうち)と聞けば、恐らく十中八九は赤穂浪士、いやそれしか思い浮かばないのではないでしょうか。
曾我兄弟の仇討ちとは
1176年10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客とし、狩に出た祐親を待ち伏せさせます。
(この事件で刺客となった大見小藤太と八幡三郎は暗殺実行後すぐに伊東祐親方の追討により殺害されている。)
一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の気に入りの家臣となります。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗りますが、弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられます。
1187年、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵(かたき)の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙いますが、敵を討つどころか逆に祐経に仇討ちなど愚かなことと諭(さと)されて「赤木柄の短刀」を授(さず)けられます。
(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止(とど)めをさした)。
結果、河津祐泰の遺児である一萬丸と箱王丸は、それぞれ曾我十郎祐成と曾我五郎時致となり、曾我兄弟となったのです。
その後、時政は曾我兄弟の最大の後援者となり、苦難の中でも曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れませんでした。
1193年5月、ついに仇討ちの機会が訪れます。
源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩を開催した時、工藤祐経も参加し、最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入り、兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たしますが、
その騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちに取り囲まれてしまいます。
曾我兄弟はここで10人斬りの働きをしますが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれ、弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられます。
翌5月29日、弟の時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べたことで頼朝は助命を考えますが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡すと、時致は静かにこれを受け入れ、斬首されたのです。
(一言:源頼朝は、曾我兄弟の弟時致の話を聞いて曾我兄弟が仇討ちに至った心情を知り、命だけはとらないでおこうと いったんは考えるものの、仇(かたき:祐経)の子の言葉でやはり時致を斬首することになりますが、時致は仇(かたき:祐経)に対する思いと、祐経の子の時致に対する思いを重ね合わせて、斬首を受け入れたのですね。仇討ちを果たして、生きる意味も無くなったのでしょう。悲しい話です。) |
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