|
〜天野の里の史跡:鬼王兄弟と曾我一族の運命は?(曾我兄弟の仇討ち外伝)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
源義朝(みなもとのよしとも)が平治の乱に敗れ、その家臣である鬼王七郎左衛門(おにおうしちろうざえもん)も東国に落ち、今の匝瑳市山桑に逃れます。
七郎左衛門には鬼王・団三郎の二子があり、共に父の遺命(いめい)で伊豆の河津祐泰(かわずひろやす)に仕えます。祐泰には十郎祐成・五郎時致の二子があり鬼王は五郎時致を、団三郎は十郎祐成をお守りしますが、河津祐泰は、伊豆の狩り場で工藤祐経(くどうひろつね)に殺されます。
その後十郎祐成・五郎時致兄弟の母親は、曽我祐信(そがひろのぶ)に嫁ぎ、曽我の姓を名乗ったあとも、鬼王・団三郎兄弟は引続き曽我兄弟に仕えました。
1193年、富士の裾野(すその)の巻狩りで父の仇(かたき):工藤祐経を討つ決意をした曾我兄弟は従者の団三郎と鬼王を膝近く呼びよせ、我等はこの好機を逸せずして父の敵を討ち取る覚悟であると打ち明け、二人を故郷の母のところへ形見の品遺書を持たせて帰そうとします。
しかし団三郎と鬼王は主君と最後を共にしたい、この敵討ちの日のために年来奉公して来たのだと言い張りますが、それが許されないとわかると、二人は刺し違えて死のうとします。十郎祐成は驚いてこれを押しとどめ、故郷の母への使者は二人しかないのだと説得します。そして兄弟は母に文をしたため、愛馬に装着していた鞍、斬髪などを形見として託し、団三郎と鬼王を送り出します。
「曽我物語」によると、このあと五郎時致は頼朝の前に引きずり出され、尋問(じんもん)されます。
頼朝は五郎時致の豪胆さにほれ込み、助けたいと思ったが、仇討ちが繰り返されることを懸念し、反対した工藤の息子に身柄を引き渡します。
この時、工藤家に筑紫(つくし)の仲太という男が身を寄せていました。
この男は五郎時致の処分を買って出て、あろうことか太刀をノコギリ状にして五郎時致の首を引きちぎったのです。
これを聞いた頼朝が烈火のように怒り、「そやつを同じ太刀で擦り首にせよ」と命じますが、男は郷里に逃げ帰ってしまいます。しかしその後男は五郎時致の亡霊に悩まされ、狂い死んだとされています。
(一言:むごい話ですね。前回の記述では、頼朝の命により五郎時致が斬首されたかのように記しました。曽我物語の記述が史実だとすれば、工藤の息子にも罰があってしかるべきですし、五郎時致を工藤家にひき渡した時点で敵討ちが繰り返されたのと同じことだと私は思います。) 曾我兄弟が父の敵(かたき)工藤祐経を苦節十八年の末に討ち果たして死した後、形見の品々を持って曽我兄弟の母:満江御前を訪ねます。
続いて曾我兄弟の首級と遺骨も、頼朝の許しを得て曽我の里に運ばれます。
十郎祐成は22歳、五郎時致は20歳だったとか。
曾我兄弟の形見の品々を受け取った母:満江御前は曾我兄弟の死を知ったと同時に、もう一人の子の身を案じます。
曾我兄弟にはもう一人、弟の禅司房(=久上禅師)がいたのです。縁あって十六歳のころから国上寺に上り出家、仏道修行に励んでいましたが、討たれた祐経の妻子が久上禅師を召し出すよう頼朝に訴えます。
伊藤祐宗(すけむね)は久上禅師の養父でしたが、、頼朝による久上禅師を捕えよとの命により、軍勢を率いて国上の寺へ攻め寄せて来ました。
一方、何事も知らずに百座の護摩を修していた久上禅師は、折りしも団三郎に渡された母上からの手紙を読み、祐宗は自分を捕まえに来たのだと知ります。
それでは尋常に討たれて養父祐宗に功名を成させてやろうと、墨染の僧衣の下に鎧を着て打って出て、しばらく戦った後、縄目の恥を恐れ自ら斬って出て(「護摩の壇上から剣をのんで落ちて」との記述も)自害せんとしましたが、祐宗の軍勢に生け捕りにされ、鎌倉へ引き立てて行かれます。
その途中、久上禅師は鎌倉へ連れられますが、斬罪になるとの風聞により七月二日、相模の国(神奈川県)甘縄の地で読経念仏の末、自ら命を絶ったといわれる。時に十八歳だったと伝えられます。
(謡蹟めぐり:謡蹟めぐり 禅師曽我 ぜんじそが - livedoor Blog ...にある新潟県分水町の国上寺境内にある、「曾我禅司房」と題する案内板の内容などを参照) その後鬼王・団三郎兄弟は、十郎祐成・五郎時致の遺骨を携えて山桑(千葉県匝瑳市山桑)の鬼王家に帰り、ねんごろに葬ったと伝えられます。現在でも鬼王家の墓地には曽我兄弟の墓があります。
以上がネット上にある多くの曾我兄弟・鬼王・団三郎兄弟に関する物語を、私なりにまとめたものですが、
となると、和歌山県伊都郡かつらぎ町の天野の里に伝わる鬼王・団三郎の墓にまつわるお話
「主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で生涯を終えたえたと伝えられています。」は、鬼王家の墓地に曽我兄弟の墓を葬った後のお話でしょうか?それとも、それとは別の伝承なのでしょうかね?
ところで、曽我の仇討ちで欠かせないのは、十郎祐成の愛人、虎御前です。
曽我物語に十郎祐成の妾(めかけ)として登場する大磯の虎御前は、虎という名前とは裏腹に、十郎祐成と出会ったのは17歳のかれんな白拍子でした。二人の付き合いはわずか1年7カ月足らずだったのですが、曾我兄弟の死を知った虎御前は、箱根寺で修行して尼となった後?山桑(千葉県匝瑳市山桑)を訪れ鬼王家に七年間も滞在し、曽我兄弟の冥福(めいふく)を祈り、その後も生涯、純愛を貫いて曾我兄弟の霊を弔い続けたといわれます。
(一言:なんとももったいない・・・いや、なんとも哀れでありながら心打つお話ですね。でも、愛人の純愛というのも現代日本では矛盾があります。一夫多妻が当たり前の時代だったからでしょうが・・・。)
虎御前が用いたうちかけは、今も残るとか。
なお、以上のお話のどこまでが事実で、どこからが能や歌舞伎の演題による脚色なのかは、
私には判断できません。あしからず。
鬼王・団三郎を弔う五輪塔(墓?)の有りのままの様子
(2015年7月15日撮影)
当日のあるがままの五輪塔は、草に覆われその多くが隠れていました。
とっても小さな五輪塔なんですよ。 |
全体表示
[ リスト ]






