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〜小田頭首工(おだとうしゅこう)を上から目線で〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
今回の小田頭首工(おだとうしゅこう)についてのご紹介以前に、先日の台風11号の影響により、紀ノ川の水位が上昇した時の小田井頭首工の状況は〜台風11号により増水した紀ノ川:濁流が流れる小田頭首工〜にて既にご紹介しました。
今回から数回に分けて、小田頭首工について紹介させていただきます。
小田頭首工は、統合井堰と言って、昭和28年の大水害によって流出した小田井、七郷井の2井堰を国営災害復旧事業により一つに統合したものです。さらに、三谷橋上流200mのところから取水し紀の川左岸側をかんがいしていた三谷井ポンプも現在は七郷井と同様、小田井水路から分水しています。
つまり現在のそれは、3つの井堰を統合したものですが、以前あった小田井という呼び名が現在でも地元では定着しており、小田頭首工(おだとうしゅこう)とは呼ばず、小田井(おだい)と呼ぶ人が殆どです。 そもそも頭首工とは何でしょう。
頭首工(とうしゅこう)とは
頭首工(とうしゅこう)は、用水の取水にかかわる一連の施設全般を指す言葉で、用水路の「頭首」に存在する取水用の堰と用水の取り入れ口、魚道などを総括しています。従って、必ずしも堰というわけではありません。
せき止めによって水位を上げることによって、上流側に水を貯留したり、用水路などへの取水を容易にしたり、計画的な分流を行ったり、また川の河口近くにある場合には、下流側からの海水の逆流を防止(潮止めという)して塩害を防ぐなどの役割を持っています。
つまり、堰は基本的に水を利用(利水)するために設置されるものであるが、大規模な可動堰は強力に水を制御できるため、実際には治水などを含めた多目的に用いられることが多いのです。 ダムとの違いとしては、(堰 - Wikipediaより)
ダムも堰と同じく水をせき止め水を貯留する機能があり、そのためダムと堰は厳密に区別できないのですが、日本では1964年(昭和39年)に改正された新河川法において、利水目的のものについては堤高15メートル以上のものをダムと定義していることから、堰は堤高15メートル未満ということになります。
一方、河川管理目的のものについては1976年(昭和51年)に「河川管理施設等構造令」が施行され河川法と同様の規定がなされたが、国土交通省が管理する一部の堰は高さが15.0メートル未満であっても、その機能から特定多目的ダムとして扱われています。
なお世界的な基準においては堤高15メートル以上のダムをハイダムといい、それに満たない高さのダムをローダムというそうです。
小田井頭首工に統合される以前の各井堰の歴史は以下の通りです。
旧小田井 江戸時代、宝永4年(1707年)に第5代紀州藩主徳川吉宗(後の8代将軍)の命を受けて大畑才蔵が開設着手しました。井堰から水を取り入れている水路は、橋本市(旧高野口町)から岩出市根来の根来川まで延長30kmに及ぶ長い水路であるうえに、土水路であるため漏水などで末端まで水が届かず水管理は大変でした。また、井堰も木と石で造ったもので、洪水の度に流され、その復旧に苦労が絶えませんでした。 十津川・紀の川総合開発事業により、上流にダムを造り水源を確保するという計画のもとに、昭和28年の大水害に伴う国営災害復旧事業によって現在のような堅固な構造物に生まれ変わりました。 旧七郷井 江戸時代、元禄12年(1699年)には存在していたという資料があり、小田井水路より古くからあったことになります。取水位置は現在の小田井分水地点より上流にあったようですが、近年は下流180mのところにありました(図参照)。 昭和28年の大水害により流失したので統合井堰の小田井から連絡水路を経て県立医科大学付属病院紀北分院裏で分水し、弁天谷川をサイホンでくぐり旧水路に接続しています。 三谷井
江戸時代、明和8年(1771年)に開削されました。昭和の始めまで井堰で取水していましたが、その後ポンプ取水に変わりました(図参照)。ポンプ取水も昭和34年の伊勢湾台風により被災し、取水困難となりました。
小田井から分水するほうが経済的なこともあり、昭和36年から七郷井と同地点で小田井水路から分水を受け、三谷橋に添架したサイホンで紀の川を渡り旧来の水路に接続しています。 次回も小田井頭首工についてご紹介します。
小田頭首工
(広角レンズで堤防より人目線で撮影)
小田頭首工
(広角レンズで堤防より9メートルの高さから撮影)
小田頭首工
(魚眼レンズで堤防より人目線で撮影) |
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